第二章 十一話 「敵の気配」
文字数 3,812文字
一方、ウィリアムとジョシュアを中心にした隊列の左翼についたイーノックの側にはアールがついて、初めての実戦の雰囲気に、まだどこか上の空の様子の新兵をサポートしていた。
「おい!視線が上ばかり見過ぎてるぞ!」
地面に走る木の根につまずいて、転げたイーノックの体を脇から支え、立ち上がるのを手伝いつつ、アールが小声で叱咤した。しかし、戦場には慣れていないが、ここ三週間のイアンとの山越え訓練のお陰か、体の動きは悪い線をいっていない。あと少し、戦場の空気に慣れれば、良い動きができるだろう、ともアールはルーキーの動きを見て思った。
隊列の右翼と後方にはそれぞれイアンとアーヴィングがつき、雨で濡れる熱帯林の中を泥になった地面を踏みながら、各々の担当する方角を警戒して進んでいた。雨の飛び散る音と地面を泥水が流れる音が周囲を包むジャングルの中で未だ敵に発見されることなく、ブラボー分隊の隊員達は前進しているはずだった。それだけに、
「分隊、前進止めてください!」
と隊内無線に響いたクレイグの声に分隊員の全員が驚いた。一瞬、体を強張らせた隊員達はその場で動きを止め、ゆっくりと姿勢を低くした。分隊の右翼では反応が遅れ、立ち止まったまま突っ立っているイーノックの肩をアールが引っ張って、地面に伏せさせた。
傍らでジョシュアがXM177E2カービンを構えて、周囲を警戒する中、自分も数秒の間、周囲の気配に感覚を澄ませたウィリアムは隊内無線を開いた。
「こちら、ウィリアム。敵を視認したのか?」
ウィリアムが無線に問うて、数秒して返答が返ってきた。
「いえ、視認はできていません。」
重苦しい声で慎重にそう言ったクレイグの声を聞いたウィリアムは草木の間から微かに見える右側面のイアンにハンドサインを送ったが、十数メートル右側でスナイパーライフルの目を光らせる彼にも敵の姿は捉えられていないようだった。ウィリアムは再び、隊内無線を開いた。
「では、トラップか…?」
沈黙した分隊の周囲を豪雨がジャングルに包まれた山肌を打ち、流れる音だけが聞こえていた。
「いえ、トラップでもありません。」
クレイグの返答は、やはり重苦しいものだった。
「しかし、感じるんです…。」
そう言った隊内無線のクレイグ声に、地面に伏せて前方を睨んでいたトム・リー・ミンクが「オカルトみたいなこと言ってんじゃねぇぞ!」と毒づいたが、隊内無線を閉じていたので、その声がウィリアム達に聞こえることはなかった。
「クレイグ、不意打ちに注意しつつ、正体を確認せよ。」
数秒考えた後、ウィリアムは命令を下した。「了解。」の返事と同時に身を隠していた木の陰から体を出したクレイグはAKMSを前方に向けて構え、姿勢を低くして前進を始めた。
「リー軍曹、十メートルの距離をおき、側面からクレイグ准尉をカバーしろ。」
「了解。」と返した後、「何も見えねえぞ…。」と毒づきつつ、XM177E2カービンを構えてゆっくりと腰を上げ、ポジションについたトム・リー・ミンクだったが、無線を切り忘れていた。
「今は視界が死んでる。目からの情報だけでは当てにならん。」
隊内無線から返ってきたウィリアムの声で自分が無線を切っていないことに初めて気づき、リーは慌てて無線を消した。
雨雲の闇と生い茂った亜熱帯の草木が視界を遮り、降りしきる雨の音が聴覚を塞いでも、クレイグの"感"は三十メートル前方の草木の間を何かが動いているのを捉えていた。肉眼では捉えられないが、彼の"感"は向こうも自分に気がついていることを感じ取っていた。緊張が体中に走り、AKMSを構えて薮に身を隠すように前進していたクレイグは一瞬、体の平衡感覚を失いそうになった。人里離れた森の中で感覚を研ぎ澄まし、野生の中で生きてきた彼だったが、それでも戦場での行軍は七年ぶりだった。まだ、状況を読み込めきれていない体に昔の記憶を思い出させながら、クレイグは崩れた不整地の上に一歩ずつ足を踏み出していた。
敵との距離はあと二十メートルほど、明らかに向こうがこちらを警戒しているのが伝わってくる。しかし、何故だ…?こちらが相手に気づいた時は五十メートルも離れていた。この天候と状況では視覚と聴覚での感知は不可能だ。まさか、敵にも自分と同じ能力を持っている人間が…?
構えたAKMSの照門と照星の向こう側に意識を集中させようとしても、脳裏に走る不安は抑え切れなかった。心臓の鼓動が少しずつ早まる。
気配まで十五メートル弱近づいた時、木の陰からこちらの動きを睨んでいた敵が動き始めたのを、クレイグは"感"で察知した。
「そっちから来るか…。」
その場で足を止め、身を伏せて、敵が近づいてくる方にAKMSを構える。クレイグは敵に気取られぬよう、雨風の騒音に紛れるような、ゆっくりとした動きで静かに隊内無線を開いた。
「敵が来ます。構えて下さい。」
クレイグのその声とともに、八人の男達の間に見えない緊張が走った。経験豊富なアーヴィングとイアンは前方からの攻撃と同時に来るかもしれない十字砲火に備えて、それぞれの担当する方向に警戒の目を強めた。
「来ます…!」
笹や藪が邪魔して、未だ姿は見えないが、わずか七メートルほどの距離にまで迫ってきている敵の気配をクレイグの"感"は捉えていた。
敵がこちらに警戒しているのは分かっている。引き金を引けば、恐らくは真正面にいるであろう敵に当たることは間違いなかったが、クレイグは引き金を引くことができなかった。
不意に、自分は引き金を引くことができるのか…?という疑念が脳裏を掠めた。
自らの残虐性から逃げ、引き金を引くことを七年間も封じていたこの体に引き金を引くことなどできるのだろうか…。
だが、目の前の敵はそんな事情など知らない。こちらに警戒の気配を巡らせたまま、ゆっくりと近づいてくる。
姿を見せる前に先手を打つか…。
AKMSの引き金にかけた人差しが引き切られようとしたその時、目の前五メートルの笹薮が動いた。
影は小さい…。もしかしたら、子供…?
脳裏に七年前の地下トンネルの中で見た、少年の死顔が血溜りに浮かぶ様子が思い浮かぶ。
全部…、俺がやったことだ…。
引き金にかけた人差し指が震えて、一瞬、その感覚が無くなってしまいそうな気がしたが、次の瞬間には薮の中で蠢く目の前の標的に対して、照準をつけたクレイグは引き金を引き切ろうとした。それと全く同時だった。薮の中から小さな毛玉が飛び出してきて、クレイグは引き切ろうとしていた引き金から咄嗟に指を外した。
鳴き声とともに飛び出してきたのは、小さなイノシシだった。一匹の後ろからさらにもう一匹が続き、AKMSを構えたまま、岩のように固まったクレイグの脇を走り去って行った。
敵じゃ…、なかった…。
向こうが人間離れした感覚でこちらを捉えているのを感じた時点で気づくべきだった。背後に消えていった気配に溜め込んでいた緊張を深い溜め息にして吐き出したクレイグだったが、再び背後から迫ってきた敵意を"感"で察知し、振り返りながら、戦闘服から抜いたバルカンダイバーを敵意のもとに突刺そうとしたが、その前に手首を掴まれて、止められた。同時に顎下にブローニングHPの銃口を突きつけられ、目の前にトム・リー・ミンクの怒気をみなぎらせた顔が迫った。
「あんまり、部隊の足を引っ張ってるとぶち殺す、て言ったよな。」
雨が降りしきるジャングルの中、二人の男はお互いの目を睨み合ったが、隊内無線から伝わってきたウィリアムの声がそれを終わらせた。
「どうした?敵の姿は視認したのか?」
手首を掴んだクレイグの体を突き飛ばし、ブローニングHPを右腰のホルスターに収めたトム・リー・ミンクが無線に答えた。
「何でもありません。准尉殿がイノシシを敵と見間違えたようです。」
その声にクレイグ以外の分隊員全員が胸を撫でおろした。
「まだ、本当の敵が隠れてる可能性もある。警戒を緩めるな。」
ウィリアムが隊内無線に告げると同時に、隊員達は土砂ぶりのジャングルの中を再び前進し始めた。数秒の間、脳裏に蘇った過去の地獄の光景のフラッシュバックに、その場に立ち尽くしていたクレイグだったが、先程までの緊迫の名残を頭から振り払ると、バルカン・ダイバーナイフを戦闘服にしまい、AKMSを構えて再び隊列の先頭につくのだった。