第二章 十一話 「敵の気配」

文字数 3,812文字

ヘリコプターから降りた降下地点から目標地点までは十キロ離れている。まず、北へ二キロの地点までは徒歩行軍でジャングルに包まれた山を越え、その先にいる工作員と接触。彼らの用意した民間船擬装のボートでトンレ・スレイポック川を数キロほど下り、標的地点へと最も距離が近くなる地点で下船。敵の監視所とキャンプを避けつつ、再び、徒歩行軍にて標的地点まで潜入する…。今回の任務における行軍の順序であったが、現在、ウィリアム達はその最初の段階である山越えに骨を折っていた。陽が登ろうとしていた空はあっという間に厚い雲に覆われ、ウィリアム達が今まさにその中を行軍している熱帯雨林は豪雨の雨に洗われていた。足元の地面は泥のように崩れる上、視界と聴覚も制限される状況にブラボー分隊の隊員達は辟易していたが、その状況に対応するため、ウィリアムはリーに加えて、クレイグも隊列の前衛につかせていた。リーが嫌がることは目に見えていたが、背に腹はかえられず、十メートルの間隔を空けて、二人は平行して前進していた。
一方、ウィリアムとジョシュアを中心にした隊列の左翼についたイーノックの側にはアールがついて、初めての実戦の雰囲気に、まだどこか上の空の様子の新兵をサポートしていた。
「おい!視線が上ばかり見過ぎてるぞ!」
地面に走る木の根につまずいて、転げたイーノックの体を脇から支え、立ち上がるのを手伝いつつ、アールが小声で叱咤した。しかし、戦場には慣れていないが、ここ三週間のイアンとの山越え訓練のお陰か、体の動きは悪い線をいっていない。あと少し、戦場の空気に慣れれば、良い動きができるだろう、ともアールはルーキーの動きを見て思った。
隊列の右翼と後方にはそれぞれイアンとアーヴィングがつき、雨で濡れる熱帯林の中を泥になった地面を踏みながら、各々の担当する方角を警戒して進んでいた。雨の飛び散る音と地面を泥水が流れる音が周囲を包むジャングルの中で未だ敵に発見されることなく、ブラボー分隊の隊員達は前進しているはずだった。それだけに、
「分隊、前進止めてください!」
と隊内無線に響いたクレイグの声に分隊員の全員が驚いた。一瞬、体を強張らせた隊員達はその場で動きを止め、ゆっくりと姿勢を低くした。分隊の右翼では反応が遅れ、立ち止まったまま突っ立っているイーノックの肩をアールが引っ張って、地面に伏せさせた。
傍らでジョシュアがXM177E2カービンを構えて、周囲を警戒する中、自分も数秒の間、周囲の気配に感覚を澄ませたウィリアムは隊内無線を開いた。
「こちら、ウィリアム。敵を視認したのか?」
ウィリアムが無線に問うて、数秒して返答が返ってきた。
「いえ、視認はできていません。」
重苦しい声で慎重にそう言ったクレイグの声を聞いたウィリアムは草木の間から微かに見える右側面のイアンにハンドサインを送ったが、十数メートル右側でスナイパーライフルの目を光らせる彼にも敵の姿は捉えられていないようだった。ウィリアムは再び、隊内無線を開いた。
「では、トラップか…?」
沈黙した分隊の周囲を豪雨がジャングルに包まれた山肌を打ち、流れる音だけが聞こえていた。
「いえ、トラップでもありません。」
クレイグの返答は、やはり重苦しいものだった。
「しかし、感じるんです…。」
そう言った隊内無線のクレイグ声に、地面に伏せて前方を睨んでいたトム・リー・ミンクが「オカルトみたいなこと言ってんじゃねぇぞ!」と毒づいたが、隊内無線を閉じていたので、その声がウィリアム達に聞こえることはなかった。
「クレイグ、不意打ちに注意しつつ、正体を確認せよ。」
数秒考えた後、ウィリアムは命令を下した。「了解。」の返事と同時に身を隠していた木の陰から体を出したクレイグはAKMSを前方に向けて構え、姿勢を低くして前進を始めた。
「リー軍曹、十メートルの距離をおき、側面からクレイグ准尉をカバーしろ。」
「了解。」と返した後、「何も見えねえぞ…。」と毒づきつつ、XM177E2カービンを構えてゆっくりと腰を上げ、ポジションについたトム・リー・ミンクだったが、無線を切り忘れていた。
「今は視界が死んでる。目からの情報だけでは当てにならん。」
隊内無線から返ってきたウィリアムの声で自分が無線を切っていないことに初めて気づき、リーは慌てて無線を消した。

雨雲の闇と生い茂った亜熱帯の草木が視界を遮り、降りしきる雨の音が聴覚を塞いでも、クレイグの"感"は三十メートル前方の草木の間を何かが動いているのを捉えていた。肉眼では捉えられないが、彼の"感"は向こうも自分に気がついていることを感じ取っていた。緊張が体中に走り、AKMSを構えて薮に身を隠すように前進していたクレイグは一瞬、体の平衡感覚を失いそうになった。人里離れた森の中で感覚を研ぎ澄まし、野生の中で生きてきた彼だったが、それでも戦場での行軍は七年ぶりだった。まだ、状況を読み込めきれていない体に昔の記憶を思い出させながら、クレイグは崩れた不整地の上に一歩ずつ足を踏み出していた。
敵との距離はあと二十メートルほど、明らかに向こうがこちらを警戒しているのが伝わってくる。しかし、何故だ…?こちらが相手に気づいた時は五十メートルも離れていた。この天候と状況では視覚と聴覚での感知は不可能だ。まさか、敵にも自分と同じ能力を持っている人間が…?
構えたAKMSの照門と照星の向こう側に意識を集中させようとしても、脳裏に走る不安は抑え切れなかった。心臓の鼓動が少しずつ早まる。
気配まで十五メートル弱近づいた時、木の陰からこちらの動きを睨んでいた敵が動き始めたのを、クレイグは"感"で察知した。
「そっちから来るか…。」
その場で足を止め、身を伏せて、敵が近づいてくる方にAKMSを構える。クレイグは敵に気取られぬよう、雨風の騒音に紛れるような、ゆっくりとした動きで静かに隊内無線を開いた。
「敵が来ます。構えて下さい。」
クレイグのその声とともに、八人の男達の間に見えない緊張が走った。経験豊富なアーヴィングとイアンは前方からの攻撃と同時に来るかもしれない十字砲火に備えて、それぞれの担当する方向に警戒の目を強めた。
「来ます…!」
笹や藪が邪魔して、未だ姿は見えないが、わずか七メートルほどの距離にまで迫ってきている敵の気配をクレイグの"感"は捉えていた。
敵がこちらに警戒しているのは分かっている。引き金を引けば、恐らくは真正面にいるであろう敵に当たることは間違いなかったが、クレイグは引き金を引くことができなかった。
不意に、自分は引き金を引くことができるのか…?という疑念が脳裏を掠めた。
自らの残虐性から逃げ、引き金を引くことを七年間も封じていたこの体に引き金を引くことなどできるのだろうか…。
だが、目の前の敵はそんな事情など知らない。こちらに警戒の気配を巡らせたまま、ゆっくりと近づいてくる。
姿を見せる前に先手を打つか…。
AKMSの引き金にかけた人差しが引き切られようとしたその時、目の前五メートルの笹薮が動いた。
影は小さい…。もしかしたら、子供…?
脳裏に七年前の地下トンネルの中で見た、少年の死顔が血溜りに浮かぶ様子が思い浮かぶ。
全部…、俺がやったことだ…。
引き金にかけた人差し指が震えて、一瞬、その感覚が無くなってしまいそうな気がしたが、次の瞬間には薮の中で蠢く目の前の標的に対して、照準をつけたクレイグは引き金を引き切ろうとした。それと全く同時だった。薮の中から小さな毛玉が飛び出してきて、クレイグは引き切ろうとしていた引き金から咄嗟に指を外した。
鳴き声とともに飛び出してきたのは、小さなイノシシだった。一匹の後ろからさらにもう一匹が続き、AKMSを構えたまま、岩のように固まったクレイグの脇を走り去って行った。
敵じゃ…、なかった…。
向こうが人間離れした感覚でこちらを捉えているのを感じた時点で気づくべきだった。背後に消えていった気配に溜め込んでいた緊張を深い溜め息にして吐き出したクレイグだったが、再び背後から迫ってきた敵意を"感"で察知し、振り返りながら、戦闘服から抜いたバルカンダイバーを敵意のもとに突刺そうとしたが、その前に手首を掴まれて、止められた。同時に顎下にブローニングHPの銃口を突きつけられ、目の前にトム・リー・ミンクの怒気をみなぎらせた顔が迫った。
「あんまり、部隊の足を引っ張ってるとぶち殺す、て言ったよな。」
雨が降りしきるジャングルの中、二人の男はお互いの目を睨み合ったが、隊内無線から伝わってきたウィリアムの声がそれを終わらせた。
「どうした?敵の姿は視認したのか?」
手首を掴んだクレイグの体を突き飛ばし、ブローニングHPを右腰のホルスターに収めたトム・リー・ミンクが無線に答えた。
「何でもありません。准尉殿がイノシシを敵と見間違えたようです。」
その声にクレイグ以外の分隊員全員が胸を撫でおろした。
「まだ、本当の敵が隠れてる可能性もある。警戒を緩めるな。」
ウィリアムが隊内無線に告げると同時に、隊員達は土砂ぶりのジャングルの中を再び前進し始めた。数秒の間、脳裏に蘇った過去の地獄の光景のフラッシュバックに、その場に立ち尽くしていたクレイグだったが、先程までの緊迫の名残を頭から振り払ると、バルカン・ダイバーナイフを戦闘服にしまい、AKMSを構えて再び隊列の先頭につくのだった。
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登場人物紹介

*ウィリアム・ロバート・カークス


本作の主人公。階級は大尉。米陸軍特殊戦用特殊部隊「ゴースト」のブラボー分隊を率いる。

八年前、ベトナム戦争従軍中、ベトナム共和国ダクラク省のチューチリンで起きた"事件"がトラウマとなり、現在でも戦闘中に襲ってくるフラッシュバックに悩まされている。


ゲネルバでの大使館占拠事件の際には、MC-51SD消音カービンを使用し、サブアームにサプレッサーを装着したH&K P9Sを使用する。


#特徴

黒人

身長は一八〇センチ台前半。

髪の毛はチリ毛だが、短く刈っている上に何らかの帽子などを被っていることが多いため、人前に見せることは少ない。

#イーノック・アルバーン


第七五レンジャー連隊・斥候狙撃班に所属する若きアメリカ兵。階級は登場時は上等兵、「ゴースト」の作戦に参加したことで伍長へと昇進した。


彼の兄で、ベトナム時代のウィリアムの戦友だった故ヴェスパ・アルバーンの代わりに、「ゴースト」へと招集される。


実戦を経験したことはないが、狙撃の技術に関しては、兄譲りの才能を見せる。


#特徴

白人

身長一八〇センチ前半台

短い茶髪 

*クレイグ・マッケンジー

元Navy SEALsの隊員でアールと同じ部隊に所属していたが、参加したカンボジアでのある作戦が原因で精神を病み、カナダに逃亡する。その後、孤児だったレジーナを迎え入れ、イエローナイフの山奥深くで二人で暮らしていたが、ウィリアム達の説得、そして自身の恐怖を克服したいという願いとレジーナの将来のために、「ゴースト」に参加し、再び兵士となる道を選ぶ……。


*特徴

年齢29歳

くせ毛、褐色の肌

出生の記録は不明だが、アメリカ先住民の血を強く引く。

*アール・ハンフリーズ


序章から登場。階級は少尉。「ゴースト」ブラボー分隊の副官として、指揮官のウィリアムを支える。 

その多くが、戸籍上は何らかの理由で死亡・行方不明扱いになり、偽物の戸籍と名前を与えられて生活している「ゴースト」の退院達の中では珍しく、彼の名前は本名であり、戸籍も本来の彼のものである。


ゲネルバ大使館占拠事件では、ウィリアムと同じくMC-51SD消音カービンをメイン装備として使用する他、H&K HK69グレネードランチャーも使用する。


#特徴

白人

身長一九〇センチ

金髪の短髪

*イアン・バトラー


「ゴースト」ブラボー分隊の隊員の一人で階級は先任曹長。戦闘技能では狙撃に優れ、しばしば部隊を支援するスナイパーとしての役割を与えられる。

年齢は四十代後半であり、「ゴースト」の隊員達の中では最年長で、長い間、軍務についていたことは確かだが、正確な軍歴は分隊長のウィリアムでも知らない。


ゲネルバ大使館占拠事件では、降下してくる本隊を支援するため、サプレッサーを装着したレミントンM40A1を使用して、敷地内のゲネルバ革命軍兵士を狙撃する。


#特徴

白人

やや白髪かかり始めた髪の毛

*ジョシュア・ティーガーデン 


「ゴースト」ブラボー分隊の通信手を務める一等軍曹。巻き毛がかった金髪が特徴。周囲の空気を敏感に感じとり、部隊の規律を乱さないようにしている。


各種通信機器の扱いに長け、リーと同様に通信機器に関してはソビエト製のものや旧ドイツ、日本製のものでも扱える。


#特徴

白人

身長一八〇センチ台前半

金髪

*トム・リー・ミンク


「ゴースト」ブラボー分隊の隊員の一人で、階級は一等軍曹。身長一七〇センチと「ゴースト」の中では小柄な体格だが、各種戦闘能力は高く、特に近距離でのナイフ戦闘技能と爆発物の扱いには優れている。特にミサイル、ロケット系の兵器に関しては、特殊訓練の結果、ソビエト製兵器でも使用できる。


気の強い性格から、他の隊員と口論になることもあるが、基本的には仲間思いで優しい性格である。

だが、敵となったものに対しては容赦のない暴力性を発揮する。


同部隊のアーヴィング一等軍曹とはベトナム戦争時から同じ部隊に所属しており、二人の間には特別な絆がある。


#特徴

アジア系アメリカ人

身長一七〇センチ

*アーヴィング・S・アトキンソン 


「ゴースト」ブラボー分隊の隊員の一人で機銃手を務める大柄な黒人兵士。 階級は一等軍曹。


その大柄な体格とは逆に性格は心優しく、穏やかであり、部隊の中でいざこざが起こったときの仲裁も彼がすることが多い。


トム・リー・ミンクとはベトナム戦争時代からの戦友。


#特徴

黒人

身長一九五センチ

*ハワード・レイエス


「ゴースト」ブラボー分隊の隊員で、前衛を務める。階級は曹長。

父親は不明、母親はメキシコからの不法移民でヒスパニック系の血を引く。7歳の時、母親が国境の向こう側へ送還されてからは、移民が集合するスラム街で生活。学校にも通っていなかったが、自発的に本から学んだことで、米国の一般レベルを上回る知能、知識を持ち、スペイン語をはじめとする語学に堪能。


ゲネルバでの作戦時には、部隊の先頭を切って勇敢に突撃したが、後にウィリアムの身代わりとなって死亡する。

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