第三章 二十九話 「過ち」
文字数 2,811文字
「この傷では生きていないか…。」
持ち主とともに、三十メートルの高さから落ちても、原型を留め、まだ正常に動作するAKMSを手に取ったアシルは血の海に染まった岩の上に小さな金属の塊が転がっているのに気が付き、手を伸ばした。
「敵であったとしても、誉れある戦いだった…。」
手に取った、錆びた銀白色のライターを見つめたアシルはすでに火のつくはずのないほど古く見えるライターのスイッチが入れられているのに気がつくと、襲撃者の流されていったと思われる川の下流を見つめて小さく呟いた。
「お前は最期に希望の灯火を見つけられたのか…?」
追撃部隊の増援とともに、前線にやって来たファンはジャングルのあちこちから集められた部下達の死体を目の前にして言葉を口に出すことができなかった。自分が犯した指揮のミスのせいで凄惨な最期を遂げた、八十人近い部下達の死体が転がる光景は指揮官として初めて前線に出たファンの心に深く突き刺さり、思わず吐き気を催した彼は足元の地面に向かって胃の内容物を全て吐き出したが、その直後、彼の後頭部を掴んだ手が強い力でその頭を引き起こし、鼓膜を破るような怒声がファンの耳のすぐ側で弾けた。
「これを見ろ!貴様!これが貴様の身勝手な行動の結果だ!」
ファンの耳元で彼の後ろ髪を引っ張ったアシルが地面に転がる死体を指差して怒鳴った。
「今度、私に何も言わずに勝手な行動をしてみろ!その時は貴様も、こいつらと一緒に死体となって転がることになるぞ!」
分かったか!と怒鳴るアシルに、ファンは吐瀉物が口から漏れた状態で虚な表情をしたまま頷くことしかできなかった。彼らの傍らには連絡を得て伝えに来たものの、二人の様子を見て戸惑うしかない小隊長付きの無線兵が立っていたが、一区切り怒鳴ったところでようやくその存在に気づくことができたアシルは先程までの怒声が嘘であるかのように、平常通りの声で無線兵に話しかけた。
「どうした?何かあったか?」
見てはならぬものを見てしまった気がして固まることしかできなかった無線兵はようやく伝令を伝えることができ、無線連絡の内容を早口に述べた。
「もう間もなく、ブイ上佐が到着されるそうです!お二人とも前線指揮所に御戻りください!」
「上佐が来られるのか…。すぐ戻る、車を用意しろ。」
命令を得た無線兵が足早に走り去って行くのを確認したアシルは後ろを振り返ると、呆然として突っ立っているファンの首根っこを掴んで引っ張った。
「聞いただろ!さっさと行くぞ!」
そう吐き捨て、背中に怒気を感じさせながらで大股で歩いていくアシルの後を、まだ心が体に戻ってきていないファンは左右にふらつきながら追いかけた。
佐官クラスの車両であることを示す表号を車体に付けたソ連製オートバイのDnepr M72が前線指揮所に到着し、そのサイドカーに搭乗していた裴伯哲(ブイ・バ・チェット)が地面に足を踏み出した時、すでに前線から戻っていたアシルとファンは他の幹部達とともに車両の前に立って、直立不動の姿勢で敬礼をしていた。「私の命令に従わず、新たに追撃部隊を出して、損害を出したらしいな。」
彼らの前に立ち、敬礼を返したブイは静かな口調でそう言ったが、その声と目には強い怒りが籠もっており、上官の激しい憤怒を感じたファンは震え、俯くことしかできなかった。
上官の指示に抗い、無断で部隊を動かした上に、八十人近い犠牲者まで出してしまった…。恐らく自分はハノイの軍法会議にかけられ、重罪で裁かれるだろう…。
震える掌を握りしめて、足元を見つめていたファンはそこまで覚悟していたが故に、隣に立つアシルが口を開いて、自分のことを弁護し始めるなどということは予想だにしていなかった。
「上佐、追撃の指示を出したのは私です。ファン少尉は敵への奇襲攻撃の指揮をよく取ってくれました。おかげで敵の隊員、一人を確保することができました。」
てっきり自分のことを突き出すだろうと思っていたばかりに、ファンは思わず驚いた表情で隣に立つアシルの顔を見たが、
「ファン少尉、本当か?」
と問うてきたブイの声に、視線を目の前の上官に引き戻された。しかし、身を呈して自分の事を庇ってくれた男を裏切る気にはなれず、ファンが返事に困っていると、今度も隣に立つアシルが彼の代わりに毅然とした態度で答えた。
「ええ…、本当です。」
「そんなミス、君らしくもないな…。」
険しい表情で見返したブイに、アシルは苦々しそうに答えた。
「申し訳ありません…。アメリカ人の特殊部隊員を相手にすることなど長い間、無かったので判断が鈍ってしまったのかもしれません…。」
重々しく口に出すアシルの言葉を聞き、俯いて沈黙したままのファンを一瞥したブイは大きな溜息を一つ吐くと、
「まぁ、良い…。指揮所の方へ行く。」
と言って、指揮テントの方へと歩き始め、その横にアシルが並んだ。
「それで…、敵戦闘員を一人捕えたというのは本当か?」
若き日の解放戦争で後遺症の残った右足を庇いながら歩くブイはアシルに問うた。
「はい。現在、意識を失って昏睡状態にありますが、確保しています。」
「敵はアメリカで間違いないか?」
「アメリカとは断定できませんが、男の持ち物に見覚えがあります…。奴が目を覚まし次第、私が尋問してみます。」
アシルの報告を聞き、頷き返したブイは腕を組み、テントの方に歩きながら続けた。
「今日の夜には、ザーギアとブエン・ホーから増援が来る。斥候を出して、敵の位置を確認し、数日中には決着をつけたいところだな…。」
「ええ…、彼らを救出したのはARVN(南ベトナム陸軍)との情報がありますので、居場所はすぐに突き止められるものと思われます。しかし、敵が弾薬の補充をし、その上に増援まで味方につけたとなると…、厳しい戦いになるでしょう…。」
指揮テントの前で立ち止まり、楽観はできない敵情に再び溜め息を付いたブイは信頼を置いている白人の作戦顧問に命令を伝えた。
「至急、敵を援護したベトナム共和国陸軍の部隊について詳細を調べてくれ、手強い敵の気がする…。それから、君には再び現場指揮を頼むことになるかもしれん、その時は宜しく頼む。」
「心得ております…。」
頷いたアシルがブイとともにテントの中に入り、その後ろに幹部達が続いた後、一人残されたファンはテントの脇に座り込むと頭を抱えて俯いた。
七七人…、自分のエゴとプライドのために死んでいった部下達の顔を思い出し、彼らの家族や愛する者達にも思いを馳せたファンは己の過ちの重大さに深いため息を付き、暫くの間、その場に座り込んでいた。