第三章 三話 「回収地点変更」
文字数 2,305文字
「嫌な予感がするな…。」
と独り言ちた。敵の姿はおろか気配や痕跡すらない、まるで原始時代の姿そのままのジャングルだったが、逆にその静けさが自分達を油断させるために作られたもののような気がして、不安を感じるアールだったが、嫌な予感を感じているのは彼だけではなく、隊形の中央に無線兵のジョシュアとともにつくウィリアムも、周囲を包む静寂に得体の知れない胸騒ぎと不安を感じていた。
すぐ国境沿いのダクラク省を墜とすために、カンボジア側では解放民族戦線が集結、準備しているはずなのに、その姿や気配すらない。落ち着ける平穏のはずなのに、不自然なそのあり方に、警戒心をより高められたウィリアムが、「全員、周囲への警戒を怠るな。」と隊内無線に叱咤しようとしたところで、「大尉、前進を止めてください。」といったクレイグの鋭い声が無線から骨伝導イヤホンを通して分隊全員の鼓膜を震わせた。
やはり何かあったか…。
嫌な予感が的中したことを悟ったウィリアムはクレイグの声が聞こえると同時に、その場で停止し、ハンドサインで周囲の部下達にも停止を命じつつ、ゆっくりと身を伏せて隊内無線を開いた。
「どうした…。」
数秒間、周囲を確認した後、無線の向こうの部下に問うたウィリアムにクレイグの返答が返ってきた。
「前方に多数の気配を感じます。」
低く真剣なクレイグの声に、
「また、動物なんじゃねぇだろうな…。」
とリーの苛立った声が寸分置かずして、無線に入ってきたが、クレイグは頑なに自分の感覚の正しさを主張した。
「いや、これは人間の気配だ。それも五十人以上…、火薬や金属の匂いも感じる…。」
「あんたの第六感はレーダーかよ…。敵なんか何処にも…。」
「リー、黙れ!」
無線に毒づくリーの声を遮ったウィリアムは新しく展開し始めた状況を目の前にして、対応の命令を部下達に出した。
「リー、アーヴィング、イーノック!前方二百メートルまで偵察に出るんだ。残りはここで待機する。」
敵の姿も気配もないにも関わらず、斥候の任を与えられたリーは、「マジかよ…。」と憂鬱そうに呟いたが、それがクレイグの指示ではなく、ウィリアムの命令だったので大人しく従った。斥候に指名された三人が偵察の準備を始める間に、背後を振り返ったウィリアムは要回収目標であるユーリに身を屈ませると、ジョシュアにも指示を出した。
「本部との無線を開け…。回収地点を変更することになるかもしれない…。」
ジョシュアが背負っていたAN/PRC-77野外無線機を下ろし、基地本部との回線を開くのを確認したウィリアムは決してそうなって欲しくはないが、クレイグの"感"が正しかった時に、取るべき代替選択肢を考え始めていた。
「イーノック、急げ!行くぞ!」
偵察行動の準備を完了したリーがイーノックを急かし、三人が斥候に出る中で、亜熱帯の陽光がジャングルの木々の上から照りつけていた。
回収予定時間が迫り、緊張感の高まる中、ブラボー分隊から届いた定時外の無線連絡は指揮室に居る隊員達の緊張感をより一層高めた。
「そうか…、では、回収地点を当初の予定から一キロ手前に設定し直し、南ベトナム海軍の哨戒艇にも伝えておく。交信終わり。」
通信オペレーターから受け取った無線機に、そう告げて交信を終えたメイナードは今度は別のオペレーターの方を向いて、「ピア・ワンに作戦の変更を伝えるんだ。」と指令を出した。
命令を与えられたオペレーターが南ベトナム軍との仲介をなしているピア・ワンとの無線交信を開き始める一方で、サンダースは無線の交信機を置いたメイナードに詰め寄った。
「何事ですか?大佐。」
「ブラボー分隊が回収地点の直前で敵の気配を感じ取ったらしい。今、リコン(偵察班)を出して、正確な状況を確認中のようだが、念の為に回収地点を一キロ手前に変更することにした。」
真剣に問う部下の顔は見ず、代わりに壁の電子地図を見つめたままのメイナードは無表情で答えた。
「気配…、ですか…。」
敵の姿を見つけた訳でもないのに、回収地点を変更した理由をサンダースは、いまいち理解できなかったが、クレイグ・マッケンジーに関する資料を全て読んだメイナードには無線の向こうのウィリアムが抱いている懸念は十分に想像でき、回収地点変更はそれが故の判断だった。
「君達もいざという時のために、すぐ出撃できるように準備しておいてくれ。」
メイナードがサンダースに指令を出すと同時に、指揮室の中に警告音が響き渡り、LED光点の集合で作戦地域一帯を再現した電子地図の上で回収予定地点を示していた赤色ライトが消え、代わりに一キロ西方のポイントに同じ赤色の光点が現れた。
「アパッチは出せんかもしれんそうですが…。」
作戦変更に伴い、回収地点の表示も変更された電光表示の地図を見つめながら、サンダースは独り言のように毒づいたが、メイナードの返答は、「ならば、その分を君達が埋めるしかない。」の一言だけだった。