第四章 二十三話 「脱走者を追って」
文字数 3,829文字
「これだけの警備が殺到しているということは、やはり…。」
サンダースの後ろを走るアレックス中尉が狼狽えた声を出して言った。間違いない。基地のスピーカーから流れる警報が言っている「脱走者」というのは自分達の指揮官だとサンダースが確信した瞬間だった。
視界を埋めた閃光と同時にサンダース達の立っている場所から百メートルほど先の管理棟建物の向こう側に赤々しい炎が立ち昇り、その炎の中から車の残骸らしき物体が飛び出して宙を舞う姿を爆発の炎に照らされた顔で見たサンダース達はそれがつい先程、タイ空軍の警備兵を荷台に満載して彼らの脇を管理棟に向けて走り去っていたダッジWCジープであると視認した。
「隊長…、あれは…。」
爆音に反射的に立ち止まったサンダースの後ろでアレックスが呻くと同時に、彼らの顔に生暖かい液体が飛び散り、遅れて四散した人間の手足が周囲に転がってきた。それがジープに乗っていたタイ軍兵士達の血液であり、肉体であることは疑いようがなかった。
「ど…、どうしますか、隊長?」
普段は長年の実戦経験に裏打ちされた自信に満ちた表情をしているアレックス中尉が震えた声で指示を求めた。怯えているのだ、すぐ近くにいる悪魔の所業に。己が追われる身にありながら、数多の敵を弄ぶように葬る人間の形をした悪魔、それも昨日まで自分達の指揮官だった悪魔の恐怖に…。
無論、久しぶりの恐怖を感じているのはサンダースも同じだったが、指揮官としての冷静さは失っていなかった。
命令に従わないのはまずい。しかし、今の大佐に挑むようなことがあれば、例え自分達といえ…。
そう考えた所で傍らに転がるタイ軍人の手首を一瞥したサンダースは背後につく部下達に恐らくは最良と思われる命令を出した。
「追跡に手を貸しているように見せかけつつも、大佐とは距離を取れ。本気で捕えようなんて考えるな。大佐に近づき過ぎたら死ぬぞ!散開!」
最後は語気を強めて言ったサンダースの声に自分達の分隊長もかつてないほどの恐怖を感じていることを悟ったアレックス達は引き締まった面持ちで敬礼すると、部隊を二つに分けて管理棟の方へと走って行った。一人残されたサンダースは格納庫を出る際に取るもの取りあえずの状態でスリングを肩にかけて持ち出したAR-18を構えると、ズボンのポケットの中に突っ込んでいた実包装填済みの30発弾倉をマガジンハウジングの中に叩き込んだ。
確かに今の大佐に近づくのは危険だ…。だが、部隊の下士官をまとめる分隊長として、自分は大佐の考えを聞かなければならない…!
夜の闇を橙赤色に照らす炎を睨み、そう決意したサンダースはこの基地から逃げ出そうとしているメイナードが最後に向かうであろう場所、タイ空軍のヘリコプター屋外駐機場に向かって走り出した。
「何故、彼は逃げ出せた…?」
破壊した防火扉から屋外に脱出したメイナードがMP5を掃射して放った銃弾の一発が右足を貫通していたリロイは現場の指揮をダーク大尉に任せ、今は管理棟建物の一室でコーディが見守る中、傷の手当を受けていた。通常時であれば、自分の傷の手当は最低限の人間にやらせて、コーディにも脱走者を追わせていたであろうが、相手が戦闘の慣れていないCIA職員など片手だけでも殺せる殺戮の天才だと分かっていたリロイはそうしなかった。
タイ軍の人海戦術で抑え込み、「デルタ」のプロ軍人達が止めを刺す…。
それが最も確実で犠牲者も少なくて済む戦略だと考えたリロイは余計な人員は敢えてメイナードから遠ざけていたが、建物の外から地響きとなって聞こえてくる爆音と銃声を聞けば、その方策が上手く行っていないのは明らかだった。加えて、完全武装した二人のデルタ隊員を拳だけで一瞬の内に葬った事実を鑑みると、もはや「デルタ」ですら手に追える相手ではないのかもしれないとリロイは考え始めていた。
「最初に脱走を発見した尋問官によると、メイナード大佐は激しい身体発作を起こして、心臓まで止まっていたそうですが…、どうやってその状態から復帰したのでしょうか…。」
治療処置を受けるリロイの傍らで訝しむ表情を浮かべながら呟いたコーディにリロイは答えを与えてやった。
「仮死の自己暗示さ…。」
「仮死の自己暗示…ですか?」
ますます訳が分からないという表情で眉をひそめて、こちらを見つめる部下に微笑を浮かべたリロイは答えた。
「そうだ…。"愛国者達の学級"の上官達が思いつきだけで考案した特殊技能だ。人体実験も兼ねて、当時の隊員達に訓練させていた…。」
「"愛国者達の学級"と言えば、五十年代に戸籍のない少年少女達を集めて、工作員の訓練を行っていた非合法組織と聞きますが…。」
部下の言葉にリロイは無言のまま頷いた。
「その部隊で私と彼は同じ一期生だった…。そして、部隊の中で仮死の自己暗示を会得…、いや現実の技術にしたのは後にも先にも彼だけだった。」
全身の筋肉に力を入れ、呼吸を止めることで自らショック状態に陥る…、"愛国者達の学級"の当時の管理者達が考え出し、部隊の子供達に強制していた非人道的訓練…、ソンミ村事件で垣間見えたアメリカの闇が遠く五十年代の初期から根深く存在していたことを感じ取ったコーディは沈黙することしかできなかった。自分が同じ立場ならば正気を失う…、いや死んでいただろう倫理も理性もない、ただ理不尽だけが横行する暗闇の世界の中をあの男は生きてきた…。それが彼を"あの絶対正義"へと導いたというのか…。
メイナードの語る正義の正しさが少しだけ理解できたようた気がしたコーディの傍らでリロイは独り言のように呟いた。
「どんな任務や無茶な要求もこなし、高い人心把握能力も併せ持っていたメイナードの事を大人達は彼の原爆による"生まれ変わり"の過去も揶揄して神の子と呼んでいた。」
「神の子…。」
あれが神の子であるはずがない。言うなら奴は悪魔だ!
残酷な最期を迎えた三人の部下の惨たらしい姿を脳裏に再び浮かべたコーディは抗いようのない理不尽に対する怒りと恐怖の念を胸中に吐き捨てたが、同時にメイナードを捕えていた部屋に監視カメラやセンサートラップの一切も設置しなかった自分にも彼らの死の非はあると気づいて、自責の念に襲われた。
「我々は彼を見くびり過ぎていたのかもしれんな…。」
沈黙して俯いている部下の心中を悟ったリロイが自分にも非があると後悔の念を独白している間にも、建物の外では連続する銃声とともに逃げ出した理不尽と恐怖の化身が大量の死体の山を築き上げていた。
「奴はどこだ!」
「分かりません!消えました!」
先程まで奪ったMP5短機関銃とグレネードランチャーを使って、追手のタイ軍人達を屍の山に変えていた脱走者が突然姿を消したことで、ターゲットを完全に見失ったデルタ指揮官のジェイラス・ダーク大尉は傍らでタイ軍人達のものも含めた無線内容を盗聴している通信士に怒鳴ったが、脱走者はタイ軍兵士達の前からも完全に姿を消したようだった。
「狙撃班からの報告は!」
メイナードの圧倒的な身体能力と戦闘技術を目にして、近距離での戦闘では歯が立たないと早期に判断したダークはM40A1スナイパーライフルと赤外線暗視スコープを装備した部下のスナイパー達を管理棟建物の屋上に上がらせていたのだったが、敵の姿が見えないのは高所からも同様だった。
「未だ発見できずとのことです!」
管理棟屋上の狙撃班と連絡を取った通信士の返答を聞き、舌打ちをついたダークが「まずいぞ…。」と焦りの念をこぼした瞬間、彼らの周囲が一瞬にして闇に包まれた。逃走者の捜索に使用されていたサーチライトの光だけでなく、建物の屋内灯や基地全体を照らしていた大型の照明灯までもがブラックアウトし、基地全体が夜闇に覆われたのだった。
「電気系統に細工しやがったか…。」
狡猾な敵の破壊工作に鼻を鳴らしたダークは発電装置のある方向へと走り出そうとしたが、夜の闇の中、視界の端に走った影の方を振り返って足を止めた。
シルフレッド・サンダース…。
基地に残った「ゴースト」の分隊指揮官、脱走者の追撃によって監視のデルタ隊員が居なくなった隙に装備を整えて外に出てきたのであろう陸軍少佐が夜の闇の中を迷うこともなく、ヘリの屋外駐機場がある方向へと走っていくのを五十メートルほど離れた先に見つけたダークはヘルメットに取り付けていた暗視ゴーグルを装着すると、緑がかった視界の中を走り去っていくサンダースの背中を追って足を踏み出した。
「大尉!どこへ?」
てっきり発電設備のある方へ向かうのだと考えていた副官の問う声を聞いたダークは走りながら背後を振り返ると、部下達に新しい命令を与えた。
「ヘリ駐機場だ!この基地から逃げるとしたらヘリしかない!お前は武器庫に戻って、レッドアイを取って来い!シーカー冷却用のバッテリーを忘れるなよ!」