第一章 十七話 「決意」
文字数 1,951文字
空気が美味しい、というのは常套的な表現だが、周囲に人家が全くないこの場所については、まさにその通りだった。ここには文明の排出する排気ガスも戦争の硝煙の香りもない。原始から争いはあっても、そういった文明の穢れはなかった人間の体はこういう場所を最も喜ぶのだな、とウィリアムは手にしたガラスコップの中のテキーラを飲みながら実感した。
「また、明日も会いに行かれるのですか?」
部屋の中で明日着る予定の防寒着をハンガーにかけているイーノックが聞いてきた。
「もし、嫌なら君は先に帰っていても良いよ。」
透明なガラスのコップを片手に振り返ったウィリアムにイーノックは苦笑して、首を横にふりながら答えた。
「一人で?また、電車でですか?それこそ、嫌ですよ。」
部下の皮肉に微笑んだウィリアムが再びベランダの方を向き、クレイグの家の方向に顔を向けた、その時だった。
「おっ!」
突然、驚いた声を出した上官に「どうしたんですか?」と軽く聞き返しながら自分もベランダに出たイーノックは、ウィリアムの視線の先を追って「おお、すごい!」と同じように感嘆の声を上げた。
午前零時を少し回った頃、雷雨は既に収まっていた。レジーナが眠りについたことを確かめたクレイグは彼女の部屋を出て、自分の寝室には向かわず、階段を下りて、そのまま玄関の方に向かった。
靴を履き、扉を開けると、雨上がりでいつもより暖かい空気が吹きかかってきた。空にはまだ厚い雲がかかっていたが、それでも僅かな切れ間から星空の光が差し込み、短く刈った庭の芝生についた水滴がその光を反射して輝いていた。その煌めきの中に足を踏み出したクレイグは内省とともに、どこを目指すともなく歩み出していた。
「君は怖くて逃げ続けている。あの戦争からも自分の中に潜む悪魔からも!」
昼間、あの黒人の士官に言われた言葉が耳の中に甦る。
俺は…、まだ逃げているのか…?七年前、ハワードと一緒に日本の田舎町を必死で走って、何かから逃げていたあの時のまま、まだ本当の安寧にはたどり着けていないのか…?
自問し続けながら、山の中の獣道を歩いていたクレイグは、気がついた時には家から山を一つ越えた湖の前まで辿り着いていた。夏には避暑地として観光客が訪れることもあるが、それ以外には人の全く近寄ることのない、文明と切り離された原始の世界がそこにはあった。
クレイグは岸に横たわる丸太の上に腰掛けると、静かに思索を続けた。
確かに、あの黒人士官が言っていたことは正しい。自分は一人で生きているようで、常に誰かを頼りにしている。七年前はハワード、そして今はレジーナに…。
レジーナが…、彼女が自分と一緒に居続けることが彼女のためにならないことは、彼女のあの青年を見つめる目を見た時から…、いや、もしかするとそれよりもずっと前から自分自身にも分かっていた。ただ、自信がなかったのだ。彼女を失くした時、自分が心の均衡を保つことができるのか…。彼女のことを一番に思って生きてきたつもりだったのに、自分を見失う恐怖から最も大事な一歩を踏み出すことができなかった…。
俺は自分自身の恐怖に打ち克てていない…。俺は自分の中の悪魔から逃げ続けているままだ…。
同時に襲いかかってきた情けなさと無力感にクレイグが白くなった溜め息を吐いて、両手で頭を抱えた時、彼の頭上を明緑色の光が包んだ。
その気配に気づき、ふと顔を上げて、上を向いたクレイグは息を飲んだ。
オーロラだ…。小さくはあるが、明緑色のオーロラが湖の上を覆っていた。ライトグリーンの光の波がうねる様を目にした時、彼の幼少期の記憶の中で唯一、幸せに包まれた記憶…、母親との最後の記憶を脳裏に思い起こした。クレイグは我知らず立ち上がり、冬の夜空に向かって手を伸ばしていた。
頬を何年ぶりかの涙が流れる。クレイグは大きく息を吸い込んだ。五感の知覚範囲が一気に広がり、この森の中の隅々まで彼の感覚…、かつて海軍の研究員達に"感"と呼ばれた特殊知覚が広がった。試練とも言える雷雨が終わり、ようやく安息を得た動物達、山の中に息ずく木々、静寂の湖の中に生きる魚達…、全ての鼓動を限界まで感じたところで、肺の中に溜まった空気を吐き出したクレイグの中で、決心は既についていた。
恐怖と決別する。もう一度、自分自身の残虐性と向き合う。今度こそ、本当の安寧を手に入れるために…。
決心とともに吐き出した空気が体から抜けて身軽になったクレイグは踵を返すと家へと帰る足を踏み出した。そんな父親の姿を少し離れた森の中で、木々の陰から見つめるレジーナの姿があった…。