第四章 四十話 「新たな隠密作戦の始まり」
文字数 4,296文字
第二、第三の追撃の可能性もあり、慌てて撤退を始めた先遣中隊に負傷者の全員を収容する余裕はなかった。既に助からないであろう者は置き去りにするしかなく、最低限救命可能な負傷者を収容した後、発進した車両群の脇では破壊された車両が燃え上がる湿地帯の中から助けを求める呻き声が絶えず聞こえていたが、地雷が仕掛けられている可能性が憂慮されるため、撤退する面々は地雷原の中で苦しむ仲間達を助ける事もできなかった。仲間を見捨てる痛みを心に封じた先遣中隊の生き残りは上級曹長と三名の部下をのせたケネディ・ジープを先頭に、後部の荷台に兵士と負傷者を載せたCA-30トラックが続く形で撤退を開始した。
そんな撤退劇の中で負傷者の代わりに使える物資を荷台に積み込んでいた最後尾のトラックは前の車両より少し遅れて発進しようとしていたが、丁度その時、
「助けてくれ…。」
と荷台にへばりついてきた兵士の呻き声に、再び停車を強いられることとなった。
「何事だ?」
運転席の北ベトナム軍兵士が荷台に座る二人の兵士に話しかけた。
「生き残りだ!」
「まだ、居たのか?」
連れていける生存者が無いことは上級曹長が確認したはずだが…。
運転席の北ベトナム軍兵士は僅かに訝しんだが、先程の奇襲による突然の爆発と銃声、そして数秒前まで生きていた仲間が一瞬にして肉片となる光景の恐怖が彼の頭を支配し、早く帰りたいという強い願望が冷静な判断を不可能にしたのだった。
「早く回収しろ!行くぞ!」
運転手の兵士が震える声で命じる中、荷台の二人は死にかかっている仲間の体をトラックの荷台に引き上げた。
「大丈夫か?」
「班の所属はどこだ?」
二人は引き上げた仲間に聞いたが、男の意識は朦朧としていて、はっきりとは答えられないようだった。
「こんな時はどうすれば良い?」
「とりあえず、水だ。水、用意しろ。」
兵士の一人が積み込んだ物資の中にある水を手に立ち上がろうとした瞬間、彼の背後から伸びてきた手がその兵士の首を絞め上げ、声もあげる間も与えずに背中から刺しこまれたMK2 USNナイフが兵士の心臓を貫き撹拌し、その命を奪った。
「おっ、おい…!」
目の前で突然倒れた同志の最期に、もう一人の兵士がまともな言葉を発するよりも先に、今度はつい先ほどまで倒れていた負傷兵が上半身を起こし、襲いかかった。
「おめっ…、こらっ…!」
それが彼の最期の言葉だった。北ベトナム軍の負傷兵になりきっていた南ベトナム軍兵士が男の体の上にのし掛かり、左手で口を押さえたまま、右手に握ったナイフを男の左胸に突き刺したのだった。
「おい!何やってんだ!早く、行くぞ!」
後ろの荷台で落ち着きなく動く仲間達に運転席の北ベトナム軍兵士が苛立った声をかける。ARVN兵士に心臓を刺されても、まだ死にきらず、助けの声をあげようとする男の首をナイフで切り裂いたアールは若い南ベトナム軍兵士の顔を睨むと、返事をするように目で促した。突然の指示に一瞬、どう返答すべきか困った顔をした南ベトナム軍兵士だったが、一秒後には早口でベトナム語を口走っていた。
「ネズミだ!ネズミが出た!」
運転手の兵士は荷台から聞こえてきた仲間の返答とその声に違和感を覚えたが、次の襲撃への恐怖がまたしても彼の冷静な思考と判断を阻んだのだった。
「ネズミが出たくらいで叫…。」
運転手の兵士がそこまで口を開いた瞬間、運転席の扉が勢い良く開き、何事かとそちらを振り向いた兵士の体にサプレッサーを装着したMk.22 Mod0 "ハッシュパピー"がくぐもった銃声とともに五発の九ミリ弾を撃ち込んだ。肺と心臓に刺さった銃弾に即死した敵兵士の体をアールが運転席から地面に引きずり落とす。それと同時に先程の南ベトナム軍兵士が助手席側から運転席に飛び乗った。
「やれるな?」
異国の言葉に「イエス!イエス!」と陽気に返事を返す男の様子を見て、一抹の不安を感じつつも、信じるしかないと思ったアールは車体の後ろに回ると、新たに茂みの中から現れた二人の南ベトナム軍兵士とともに北ベトナム軍兵士の死体を荷台から叩き落とす作業に移った。その作業の中でアールはこの隠密作戦が始まることになった経緯を回想した。
「敵の本部を捜索する?」
驚いて問い返したリーの言葉にアールは頷いた。合流地点A-Z-ブラボー、奇襲攻撃成功の折りに合流することを予定していたジャングルの一角でアールは重要な作戦計画を話していた。
「捕虜の話では敵の指揮所は俺達の陣地から七キロほどしか離れていない。正確な位置さえ割り出せれば、重迫撃砲の射程でも十分に届く範囲だ。」
アールは自信ありけだったが、リーとアーヴィングは彼の作戦に同意できぬ様子で渋い顔をしていた。
「いやしかし、敵の本部などにどうやって?」
リーの当然の質問にアールは微笑を浮かべて返した。
「既に考えてある。」
そこでアールが語った策こそ、負傷兵に偽装した南ベトナム軍兵士を使っての敵のトラック強奪作戦だった。
「確かに軍服さえ変えれば、同じベトナム人ですが…。その車列が敵の本部に行くとは限りませんし…。」
疑義を挟んだアーヴィングにアールは、
「だが、他に手段があるか?」
と問い返した。
「いいか。先遣部隊でもあの規模だった。敵の総力は恐らく我々の何十倍もある。正攻法では絶対に勝てない。だが、敵の指揮官を潰し、指揮系統を狂わすことができれば、勝機はある!」
確かに言っていることは正しいが、アールの提言は一か八かの賭けでもあった。アーヴィングの言った通り、敵の先遣部隊が自分達の指揮所に帰るとは限らない。仮に予想が当たり、敵が指揮所に帰ったとしても、アール達は何万の敵が囲む敵地の中で孤立することとなる。リーとアーヴィング、そして十数人の南ベトナム軍兵士は互いに話し合いながら、数分ほどのアールの作戦について議論を交わした。そしてその話し合いが終わった後、リーが最初に口を開いた。
「だいぶ無茶な作戦ですが…、やってみる価値はあるでしょう。それで作戦の指揮は誰が?」
部下の顔を見返して、アールは答えた。
「指揮は私が取る。」
予想してなかった言葉にリーとアーヴィングは激しく動揺した。
「それは反対です!少尉は前線に必要です!」
二人は必死で止めようとしたが、アールの決意は固かった。
「前線には大尉がいる!」
過去のトラウマを断ち切った今のウィリアムならば、自分の補佐などなくても大丈夫だと陣地を出発した時に確信していたアールは続けた。
「明朝には始まだろう敵の猛攻を考えれば、お前たち二人こそ前線に必要だ。だから、この隠密作戦は私自身が指揮を執る。」
「しかし、少尉…。」
リーはまだ言いたいことがあるようだったが、アールは異論を認めるつもりはなかった。
「作戦のためには、あと三人欲しい。」
アールは待ち伏せ作戦に同伴した南ベトナム軍兵士達に助けを求めた。その結果、英語が理解できる部隊長の軍曹と無線兵、そして剽軽な性格をした若者の南ベトナム軍兵士の三人が自ら志願して、アールの作戦に加わることとなった。言葉の壁があるために、それぞれ"部隊長"、"ラジオ"、"剽軽者"と呼ぶことを三人に伝えたアールは待ち伏せ部隊の本隊とともに帰還するリーとアーヴィングに念押した。
「よし、それでは大尉にこのことを伝えておいてくれ。無線は使うなよ。」
背中に受ける二人の部下の困惑と憂慮の視線を受け流したアールは生き残った敵部隊が陣形を立て直しているであろう小道の方へと戻る足を踏み出したのだった。
敵兵士の死体を車から下ろした"部隊長"、"ラジオ"、アールの三人が荷台に乗ったことを確かめた"剽軽者"の若い南ベトナム軍兵士はアクセルを踏み込み、前方の車両を追うようにして、トラックを発進させた。
「なんだこれは?爆発物か?」
整備されていない小石が幾つも転がる砂利道を行くトラックの、揺れる荷台の中で積み上げられた木箱を見て、アールが独り言ちた。ベトナム語で部隊名らしき文字が表面に書かれた木箱には英語で"EXPLOSION"と書かれた文字もプリントされていた。アールの視線の先を追った"部隊長"が木箱の蓋を開けると、中にはM18A1クレイモア対人地雷とC4爆弾がぎっしりと詰められていた。木箱は全部で五つ、恐らくは他のものも中身は同じだろう。
「爆発物だな。使えるかもしれん…。」
アールと二人の南ベトナム軍兵士は木箱の中身を取り出すと、来たるべき時のために荷台の床の上に並べ始めた。
アール達が敗走する敵のトラックに乗り込み、たった四人での隠密作戦を開始した同時刻、時計は現地時間で深夜二時を回ろうとしていたタイ西部、ウボンラーチャータニーの街から数キロ北に離れた砂利道を一台の車が走っていた。乗っているのは、この周辺に住むタイ人の中年の男。一世代昔の日本製の軽トラックに乗る男はウボンラーチャータニーの街で数日後の祭りの準備をしていたことで遅くなった家路に文句を言いながら、あくびをしていたが、数十メートル先を照らすのがやっとなヘッドライトの光が道路の上に転がる人影を映した瞬間、全力でブレーキを踏み込んだ。
「大丈夫か!」
何とか轢かずにすんだ人影にトラックを飛び降りたタイ人の男は駆け寄った。だが、道端に転がるスーツ姿の男から返事はない。微かに硝煙と血肉の香りがする男の服からただ事ではないと察知したタイ人の男はどうやら白人らしい男の体を調べて、外傷がないか確かめようとした瞬間、伸びてきた白い腕に首を絡まれ、直後に頭部を一八〇度回転させられて息絶えた。
「常に用心深く…、だよ。」
首の骨が折れたタイ人の死体を退けつつ、体を起こしたメイナードはスーツについた汚れを払うと、ヘッドライトの光を照らしたまま沈黙する軽トラックに乗り込んだ。
「さて、次はどうするものか…。」
そう言って、一人不気味な笑みを浮かべたメイナードはまだ暗いタイの田舎道を軽トラックで北の方角へと走り出し、舗装されていない砂利道には自分自身の最期を自覚する間もなく死んだであろうタイ人の男の死体だけが残されたのだった。