第三章 零話 「過去」
文字数 2,124文字
満州事変の起こった一九三一年、私は長崎の稲佐山という土地に生まれた。市内の中心部より少し離れた、長崎の街と軍港を一望できるその場所で私は父親と母親、兄と姉の四人とともに十代前半までの時間を過ごした。決して裕福な暮らしをしていた訳ではなかったが、その後の壮絶な人生を思えば、あの頃が私の人生の中で最も幸福な時期だったかもしれない。
私が十歳の冬に真珠湾攻撃が起き、それを契機とした太平洋戦争が始まった。月日が経ち、南方での戦闘が激化するに連れ、私達の日々の生活は苦しくなり、ただ連戦連勝の一言を繰り返す大本営発表を信じて、周囲の人々が生きる力を振絞ろうとする中、最初に父が、そして次に兄が徴兵されて、前線へと送られた。戦争が始まってから三年半が経とうとしていた一九四五年の八月、私の家には私と姉、そして当時は不治の病とだった結核を患った母の三人だけが残され、私と姉は重病の母親を看病しつつ、昼間は市内にある軍の酸素魚雷工場で働いていた。
「幸江、泰彦、気をつけてね。」
結核の症状がひどく、普段は一人で立ち上がることも難しい母が、その日の朝は家の門まで出てきて、仕事に出かける私と姉のことを見送ってくれた。その姿が、全ての変わってしまった今でも私の脳裏に焼き付いて離れない。何かとても不思議な気分になったのを覚えている。何か起こることを予感して、自分の子供達の姿を見送りに来たのか、それともその後、何が起こったか知っている自分が、そう感じたように記憶を無意識の内に脚色したのか、どちらであるかは三十年経った今ではもう分からない。ただ一つだけ確かに分かるのは、それが私の人生で最後に見た母の姿だったということだけだ。
その轟音が轟いたのは、朝の十一時を過ぎた頃だった。いや、それが轟音であったのかどうか定かではない。ただ、その瞬間に高度九六〇〇メートルの超高空から投下されたインプロージョン式プルトニウム爆弾が私達、勤労学生達の働く酸素魚雷工場直上で炸裂したことは確かである。
爆発が地面を揺らす震動よりも先に、五〇〇メートル上空で発した四千度の熱線と放射線がプレハブの薄い屋根を突き破って、工場の中に差し込み、私の周囲の学生達を一瞬の内に炭化させ、次の瞬間には轟音とともに工場の窓や扉から目を潰すような眩い光が入り込み、私の周囲を完全に覆った。まだ死を体感したことのない十四歳の私はその光の中で、だが、自分を包み込んだものが死とは全く別のものだということを瞬時に悟った。同じ光の中で、共に働いていた旧友達は一瞬の内に灰と化して消えた。何故、自分だけが選ばれたのか、今の私にも分からない。自分の身に何が起こったのか、そしてこれから何が起こるのかも…。何も分からぬ少年の私が、その光の中で一つだけ脳裏に描いたのは、最後の朝に自分と姉を見送った母親の最後の姿だった…。
「大佐!いらっしゃいますか?」
南ベトナム空軍の攻撃機が標的の基地を完全に破壊したという報告を聞いた後、指揮室のあるA棟格納庫脇の小さな兵舎に用意された自室で休眠をとっていたメイナードは、扉をノックする音と同時に聞こえた部下の声で遠い日の夢から目覚めた。
「大佐!いらっしゃいませんか!」
数秒の後、もう一度ノックとともに扉の向こうから聞こえてきたサンダース少佐の声に、組み上げたパイプに布を敷いただけの簡易ベッドから起き上がったメイナードが
「良いぞ!入ってくれ!」
と返事を返すと、広さはわずか十五平方メートルほどの狭い部屋に、ウィルフレッド・サンダース少佐が扉を開けて入ってきた。
「お休みでしたか。」
立ち上がって乱れた服装を直していた上官を見て気遣ったサンダースに、
「いや、気にしなくて良い。それより…。」
と口を開いたメイナードは傍らの小さな机の上に置かれている置き時計が指し示す時間を確かめると、サンダースの方を見返した。
「時間だな。」
「はい。予定通りに作戦が進んでいれば、あと数分でブラボー分隊より最初の定時連絡があるはずです。」
作戦が成功したのか否か、いよいよ分かる時が来る。やや緊張した面持ちのサンダースとは正反対に、平常と全く変わらぬ様子のメイナードは落ち着いた声で、
「よし!指揮室に戻っていてくれ。すぐに行く。」
と返すと、指揮室に戻る準備を始めた。敬礼をして、堅い動作で部屋を出ていった部下を見送ったメイナードは黒スーツの上着を着ながら机の上の小さな鏡に映る自分の姿を一瞥し、先程までの夢を思い出して、自分自身を笑った。
生物学的に言えば、もう今の自分は完全な別人だというのに、まだあの頃の夢を見るということは、人の存在それ自体は何をもっても変えることはできないということか…。
そう胸の中で己自身の運命を嘲笑いながら、身支度の準備を済ませたメイナードは自分の部屋を出て、指揮室へと向かった。