第四章 二十八話 「最期の嘆願」
文字数 4,059文字
数人のベトナム人衛生兵が慌ただく動き回る医療テントの中心で、簡易ベッドの上に横たわるジョシュアの顔は既に血の気が引いて灰色になっており、殆ど動かなくなった目の周りと唇には黒い変色が生じていた。
「状態は…!」
テントに飛び込み、部下の顔を見るなり問うたウィリアムを見返した南ベトナム軍の衛生兵は気の毒そうな表情をすると、静かに首を横に振った。
また一人、仲間が自分達のために死んでいく…。
目を背けたい、避けられない事態を前にして、愕然としたまま固まることしかできないウィリアムの後ろで遅れて追いついたアール達がテントの中に入ってきた。
「ジョシュア!」
医療テントに入るなり、明らかに容態の悪い仲間の姿を目にしたリーが衛生兵の制止も無視して、思わず仲間の名前を叫んだ。その声で目を開いたジョシュアは同僚達の方に首を向け、微笑んで左手を動かしたが、死の気配に強張った笑顔は苦痛によって直ぐに消てしまい、動かした左腕も殆ど手首から先しか動いていなかった。
「ジョシュア…。」
ウィリアムにとって、部下の最期を見るのは初めてではない。ゲネルバで死んだハワードやチューチリンで彼自身が殺めた親友、そして多くの亡き戦友達…、仲間の死を目にする度に自分の心は強くなっていっていると思っていたウィリアムは自分自身の過去と向き合った後、再び部下の死と対面した今、それが単なる思い上がりであることを痛感させられた。
「大尉…。」
掠れた、辛うじて聞き取れる声で自分に話しかけた部下に顔を近づけたウィリアムは内心の動揺と悲哀を悟られぬよう、声を震わせないようにして問うた。
「何だ?」
部下を気遣い、気を張ろうとする部隊長の顔に最後の力を振り絞って、笑顔を浮かべたジョシュアはウィリアムの背後に視線を送ると、掠れる声で部下として最期の頼みを伝えた。
「彼を…、必ず、アメリカに…。」
その言葉にジョシュアの視線を振り返ったウィリアムはアール達の後ろに呆然として立つユーリの姿を見て、何か安堵のような感情を感じた。
やはり自分の信じた正義は間違えていなかった…。
ユーリを守り、この世界も守る。そんな傲慢で困難な正義をイアンとクレイグもきっと望んでくれているとウィリアムが胸中に感じた瞬間、ジョシュアの側で処置に就いていたベトナム人の衛生兵達が騒ぎ出し、ウィリアムは背けていた顔をジョシュアの方に向け直したが、その時には部下としてのラスト・メッセージを伝え終えたジョシュアは息絶えていた。
「ジョシュア!」
「おい!この阿呆!こんなところで死ぬな!」
アールとリーが背後で相次いで声を上げる中、ウィリアムはまだ体温の残るジョシュアの額に触れ、開いたままの瞳を静かに閉じた。
安心しろ…、お前の正義は私が代わりに成し遂げる…。
亡き部下の魂に胸中でそう語りかけたウィリアムは左右によろめきながら立ち上がると、後ろに立つアール達の脇を何も言うことはなく通り過ぎ、テントの外へと出て行った。
「大尉…。」
無言のまま去っていった指揮官の背中に消えそうな声で呼びかけたアールはベッドの上に横たわるジョシュアの姿を見た。ベトナム人衛生兵によって、顔に白い布をかけられようとしている部下の死に顔はまるで眠っているかのようだったが、彼が再び起き上がって、仲間達と笑い合うことは永遠にない。
また新しく一人の仲間が死んだ…。
その事実重たさに言葉を失ったアールには傍らの部下達にかける言葉は見つからなかったが、彼が困惑と自責の念に押し潰されるよりも先に、トム・リー・ミンクの怒声がテントの中に響き渡った。
「お前のせいだ!貴様が裏切ったせいでジョシュアは死んだ!」
そう怒鳴って後ろを振り返ったリーはアール達の後ろで初めて見る戦場での人の死に呆然としているイーノックに飛びかかった。
「おい!何が世界を救うだ!なら今からでも、あいつを生き返らせてみろ!おい、やってみろよ!」
「やめろ!」
我を失い、押し倒したイーノックの上に馬乗りになって殴り続けるリーをアールが背後から制止に入ったが、いつもは暴走したリーを止めるアーヴィングは今回は怒りを爆発させる親友の姿を傍らで見下ろすだけだった。
「何が兄貴の死の真相が知りたかっただ!クソくらえが!てめえのその身勝手なエゴのせいで、かけがえのない仲間が三人も死んでいったんだぞ!分かってるのか!世界のバランスだの、人類の未来だのそんなデカいことばっかり言う前に目の前の人間のことを考えろや!貴様がCIAに情報を流さなければ、こんなことには…!」
「止めろ!こいつがCIAと関わっていたことと、俺達が敵に待ち伏せされていたことは関係ない!」
アールの二度目の制止にもリーは「邪魔せんとってください、少尉!」と怒鳴って、イーノックに更に拳を振り下ろそうとしたが、その瞬間テントの外に轟いた一発の銃声がその動きを制し、テントの中に緊張が走った。
「まさか…、大尉…!」
背筋を震わせた突然の銃声に最悪の事態を想起したアールは目の前の部下達の衝突も忘れて、医療テントから飛び出した。アールと同じことを想像したリーとアーヴィングもその後ろに続いて勢い良くテントの外へと飛び出し、地面に仰向けのまま呆然として倒れているイーノックと棒立ちのまま立ち尽くしているユーリだけがテントの中に残された。
二人の部下を失い、諜者の部隊への侵入さえも許してしまった。そして、今更にもう一人の部下がこの世を去ったことに自責の念を感じて…、まさか…!
聞き覚えのあるコルト・ガバメントの銃声がした方へと走りながら、アールはありえるかもしれない最悪の事態を想像したが、45口径の自動拳銃が銃口から硝煙の残り香を上げる先に彼が見たものは夜の闇の中でも際立ってはっきりと見える上官の凛とした後ろ姿だった。三人の部下を失ったウィリアムは月光と星々が輝く熱帯の夜空に向けて、右手に握ったコルト・ガバメントを片手で構え、無言で佇んでいた。
「大尉…。」
余りにも静かな、だが、どこか力強くも感じる分隊長の後ろ姿にアールが声をかけようとした刹那、ウィリアムの右手に握られたコルト・ガバメントが明黄色の閃光を放ち、放たれた太い銃声が地面に重たく広がる夜気を破った。
リーとアーヴィング、そして遅れて追いついたイーノックがアールの後ろについて、ウィリアムの後ろ姿を見守る中、更にもう一発、コルト・ガバメントがマズルフラッシュの閃光とともに吐き出した重い銃声が鎮魂の響きをもって地面を震わせた。
それは死者に対する鎮魂の銃撃であるとともに、ウィリアムにとっては自分自身の心に彼らの死と決別するための覚悟を促す銃撃でもあった。
イアン・バトラー、クレイグ・マッケンジー、ジョシュア・ティーガーデン…、そして最後に…。
かつて、この東南アジアの地で彼が自ら手を下した最愛の親友…、"彼"の顔を思い浮かべたウィリアムは右手の人差し指に引き込んで、コルト・ガバメントのトリガーを引き切った。撃鉄が落ち、雷管が弾けて、銃身が跳ね上がる反動とともに(夜の沈黙を破る銃声が鎮魂の礼砲の如く轟き、死者への弔いの念を込めた45口径弾を空を切る。
これが最後だ…。これが自分が部下を死なせる最後の時だ…。
そう胸中に念じたウィリアムは手にしたコルト・ガバメントを腰のホルスターに収めると、自分の姿を背後で見守っていた部下達の方を振り返った。アール、リー、アーヴィング、イーノック、それぞれ胸に持つ正義はきっと異なる。だが、そんな四人の男達が一つの目的を、正義を果たすために同じ死地に集まった…。
「すまない、みんな…。」
ウィリアムは一人一人の顔を見返して、詫びの言葉を述べた。分隊の副指揮官として、どんな時でも自分の忠実命令に従い、作戦遂行の補佐を務めてくれたアール・ハンフリーズ。穏やかな性格を活かして、部隊の中の緩衝材として働いてくれたアーヴィング・アトキンソン。勇猛果敢な突撃で激戦の中でも部隊の血路を開いてくれたトム・リー・ミンク。そして、最後に静かな涙を流しながら項垂れているイーノックの顔を一瞥したウィリアムは続けた。
「みな各々思うことがあるだろうが、私はこの任務を完遂したい…。ユーリ・ホフマンと"サブスタンスX"をアメリカに持ち帰り、然るべき組織、世界大戦のような馬鹿なことを考えない人間達が管理する安全な場所に引き渡す。そのためには君達の力が必要だ。私を助けてくれるか…?」
ウィリアムの問いに最初に威勢良く答えたのはトム・リー・ミンクだった。
「喜んでお供します!」
直立不動の敬礼をしたアジア系隊員の横で、今度はアーヴィング・S・アトキンソンが同じようにウィリアムに敬礼をして声を張り上げた。
「私も大尉と同じ考えです!我々は任務を達成し、彼をアメリカに連れて帰るべきだと思います!」
ウィリアムが視線を向けた先で彼の長年の副官、アール・ハンフリーズも無言で頷き、敬愛する指揮官に対して敬礼を示した。そして、最後に三人の後ろで声を殺し、静かに涙を流していたイーノックが涙と鼻水で濡れた顔を静かに上げると、右手を顔の前に上げ、ウィリアムを直視して精一杯の敬礼を見せた。
「分かった。みんな、ありがとう…。だが、ここから先は地獄だぞ。覚悟はできているな?」
部下達の誠意を受け止め、笑顔を返したウィリアムはしかし、次の瞬間には真顔で部下達に覚悟を決めるよう伝えた。
「どちらに行こうと、もうここは地獄ですよ。何処までも大尉について行きます!」
そう言ったのはリーだったが、心の中に抱いている思いはアールもアーヴィングもイーノックも皆同じであった。