第二章 十六話 「"彼"の問い」
文字数 2,655文字
「間違いありません。今度は人です…。」
前衛についているクレイグは前方距離三十メートルの藪の中に見える人影を睨みながら、隊内無線に告げた。
「こちらからも確認…。もしかしたら、民族戦線の斥候かも…。」
同じく前衛につくトム・リー・ミンクも前方に見える正体不明の人影を確認したようだった。ダブルチェック、今回は間違いなく人だろう。そうなれば、ブラボー分隊の隊員達の取る道は姿を見られぬよう迂回するか、それとも人影がいなくなるまで待機するかだった。
今日もイーノックと一緒に隊形の左翼に付いていたアールは隊内無線を開いて確認を求めた。
「隊長!迂回しますか?」
返答を数秒、待つ。だが、ウィリアムの声が返ってくることはなかった。アールは再び、隊内無線に問うた。
「隊長!カークス大尉!どうしますか!」
再び返答を待つ数秒が流れる。しかし、分隊長の声が返ってくることはなかった。アールは自分の無線の故障を疑ったが、彼の隊内無線に異常はなかった。
「隊長!応答してください!隊長!」
アールの切迫した声は骨伝導イヤホンを通して、ウィリアムの鼓膜をしっかりと震わしていたが、しかし彼の意識の中に、その声は届いていなかった。
M16を構えて直立したまま、前方のジャングルを呆然と見つめているウィリアムの意識の中には、いつぞやのチューチリンの村で聞いた"彼"の声だけが反芻していた。
「それがお前の信じる正義なのか?」
頭の中に響く声に押さえつけられるように体は金縛りにあい、ウィリアムは一歩たりとも動けなかったが、その眼だけは左右に激しく動いていた。
自分の意思を離れ、動き回る視線の先のあちこちに、オリーブドラブのOG-107戦闘服に身を包んだ"彼"の姿があった。生い茂る茂みの裏側、熱帯林の木の脇、地面の下からも顔だけを突き出して、沢山の"彼"がウィリアムの方を見つめて、口々に問うていた。
「俺を撃つことがお前の正義なのか?」
鼓動は速まり、冷汗が体中から吹き出す。
「もう…、やめてくれ…。」
震える声で呻いたウィリアムは、あと少しのところでM16A1の引き金を引ききって暴走しそうだったが、すんでのところで肩を揺さぶったジョシュアの手に意識を正気に引き戻された。
「大尉!少尉が命令を確認しています。」
先程の幻想から冷めると同時に振り向いた先で、目の前に迫ってきたジョシュアの顔が一瞬、"彼"のものに見えたウィリアムは反射的にジョシュアの体を突き飛ばし、M16を構えていた。
「どうしたんですか…。」
両手をわずかに上げ、驚いた様子の部下の声に正気に戻ったウィリアムは「いや、何でもない。」とM16の銃口を下ろすと、「少し、気を張り過ぎただけだ。」首を左右に振った。
「大尉!大丈夫ですか?!指示を求めます!」
隊内無線からは相変わらずアールの指示を求める声が聞こえている。ウィリアムは、まだ微かに震える手で隊内無線を開いた。
「目をそらすな。対象を避けつつ前進す…。」
「対象に動きあり!」
ウィリアムの命令が完全に終わるよりも先に、隊内無線にリーの声が走った。続いて、クレイグの声が。
「こっちに気づいた。逃げていくぞ!」
「捕らえろ!」
最後に聞こえたリーの声に、ウィリアムは、「隊形を崩すな!」と隊内無線に叫んだが、返事は返ってこなかった。
後ろで何が起きて、指示がすぐに返ってこなかったのかは分からない。だが、分隊長の指示を待っている間に、こちらの存在に気がついた人影が逃げ出したことだけは、前衛の二人には明らかだった。熱帯林の茂みの中を逃走する小さな影を追って、クレイグとリーは全力で走り出した。
他に人影の気配はないが、ブービートラップが仕掛けられているかもしれない…。クレイグとリーは周囲に不自然な変化がないか視線を走らせて確かめながら、逃げる影の後を追った。三十メートルほど走り、やや人影が近くなってきた時、二人の目の前で逃走する影が二つに別れた。二人居たのだ…。
「俺は左へ行く!あんたは右へ行け!」
クレイグの左脇、数メートルを並行して走っていたリーが叫んだのに従って、クレイグは右側に避けた方の影を追った。藪の中、十メートルほど前方を走って逃げる影はこの辺りに慣れているのか、すばしっこく木の間の小さな通り道を抜けたり、小さな崖をジャンプして追跡者を振り切ろうとする。
だが、クレイグも森の中での追いかけ合いに関しては負けていなかった。どんどんと影との距離は縮まり、藪に阻まれていたその後ろ姿の全体像がついに見えてくるようになった。
かなり小さい。まさか、子供か…?
追いかけながら、クレイグは直感的に考えたが、それでも油断はできなかった。
民族戦線の兵士には女も子供もいる。だからこそ、自分はあの時…。
血溜まりの中に浮かぶ、額と左目に大きな穴の開いた子供の死体…、脳裏に浮かぶあのトンネルでの地獄の光景を、頭を横に振って意識から追い出したクレイグは、もうすぐ目の前に迫った小さな影の前に滑り込むようにして、その腰を掴むと地面に引き倒した。
すかさず、地面に倒れた小柄な体に馬乗りになり、薄い布切れのような服の上から武器を持っていないことを確かめる。体格からして、子供。武器は持っていないようだった。クレイグは、今度は頭を掴んで顔を確認した。
長い滑らかな黒髪の下から現れたのは、幼い少女の顔だった。その顔を見た瞬間、クレイグの脳裏にレジーナの顔が思い浮かび、一瞬、拘束する手の力が弱まった。その隙きに少女はクレイグの腕を振り払い、地面を這って逃げ出そうとしたが、次の瞬間には我に返ったクレイグに腰を掴まれ、引きずり戻されていた。
「確保した!」
クレイグがうつ伏せにして拘束した少女の両腕を拘束バンドで縛り上げていた時、隊内無線にトム・リー・ミンクの声が響いた。どうやら、あちらも捕まえたらしい。少女はクレイグの体の下でうつ伏せのまま、叫びながらバタついていたが、力が弱いため、拘束はすぐに完了した。
「こちらも確保。本隊と合流します。」
隊内無線に告げたクレイグは、手を背中の後ろ側で縛った少女の服の首元を掴むと、強引に立たせ、悲鳴なのか文句なのか、訳の分からない言葉を喚く少女を前に立たせて、本隊と合流する道を戻り始めた。