第二章 十六話 「"彼"の問い」

文字数 2,655文字

カンボジア領内、現地時刻は三月十日午後二時、作戦開始まであと十時間であった。昨夜の夜営を何事もなく終えることができ、再び行軍を開始していたブラボー分隊は目標地点まで余裕を持ってたどり着けるはずだったが、ここに来て予期せぬ障害に前進を阻まれていた。
「間違いありません。今度は人です…。」
前衛についているクレイグは前方距離三十メートルの藪の中に見える人影を睨みながら、隊内無線に告げた。
「こちらからも確認…。もしかしたら、民族戦線の斥候かも…。」
同じく前衛につくトム・リー・ミンクも前方に見える正体不明の人影を確認したようだった。ダブルチェック、今回は間違いなく人だろう。そうなれば、ブラボー分隊の隊員達の取る道は姿を見られぬよう迂回するか、それとも人影がいなくなるまで待機するかだった。
今日もイーノックと一緒に隊形の左翼に付いていたアールは隊内無線を開いて確認を求めた。
「隊長!迂回しますか?」
返答を数秒、待つ。だが、ウィリアムの声が返ってくることはなかった。アールは再び、隊内無線に問うた。
「隊長!カークス大尉!どうしますか!」
再び返答を待つ数秒が流れる。しかし、分隊長の声が返ってくることはなかった。アールは自分の無線の故障を疑ったが、彼の隊内無線に異常はなかった。
「隊長!応答してください!隊長!」
アールの切迫した声は骨伝導イヤホンを通して、ウィリアムの鼓膜をしっかりと震わしていたが、しかし彼の意識の中に、その声は届いていなかった。
M16を構えて直立したまま、前方のジャングルを呆然と見つめているウィリアムの意識の中には、いつぞやのチューチリンの村で聞いた"彼"の声だけが反芻していた。
「それがお前の信じる正義なのか?」
頭の中に響く声に押さえつけられるように体は金縛りにあい、ウィリアムは一歩たりとも動けなかったが、その眼だけは左右に激しく動いていた。
自分の意思を離れ、動き回る視線の先のあちこちに、オリーブドラブのOG-107戦闘服に身を包んだ"彼"の姿があった。生い茂る茂みの裏側、熱帯林の木の脇、地面の下からも顔だけを突き出して、沢山の"彼"がウィリアムの方を見つめて、口々に問うていた。
「俺を撃つことがお前の正義なのか?」
鼓動は速まり、冷汗が体中から吹き出す。
「もう…、やめてくれ…。」
震える声で呻いたウィリアムは、あと少しのところでM16A1の引き金を引ききって暴走しそうだったが、すんでのところで肩を揺さぶったジョシュアの手に意識を正気に引き戻された。
「大尉!少尉が命令を確認しています。」
先程の幻想から冷めると同時に振り向いた先で、目の前に迫ってきたジョシュアの顔が一瞬、"彼"のものに見えたウィリアムは反射的にジョシュアの体を突き飛ばし、M16を構えていた。
「どうしたんですか…。」
両手をわずかに上げ、驚いた様子の部下の声に正気に戻ったウィリアムは「いや、何でもない。」とM16の銃口を下ろすと、「少し、気を張り過ぎただけだ。」首を左右に振った。
「大尉!大丈夫ですか?!指示を求めます!」
隊内無線からは相変わらずアールの指示を求める声が聞こえている。ウィリアムは、まだ微かに震える手で隊内無線を開いた。
「目をそらすな。対象を避けつつ前進す…。」
「対象に動きあり!」
ウィリアムの命令が完全に終わるよりも先に、隊内無線にリーの声が走った。続いて、クレイグの声が。
「こっちに気づいた。逃げていくぞ!」
「捕らえろ!」
最後に聞こえたリーの声に、ウィリアムは、「隊形を崩すな!」と隊内無線に叫んだが、返事は返ってこなかった。

後ろで何が起きて、指示がすぐに返ってこなかったのかは分からない。だが、分隊長の指示を待っている間に、こちらの存在に気がついた人影が逃げ出したことだけは、前衛の二人には明らかだった。熱帯林の茂みの中を逃走する小さな影を追って、クレイグとリーは全力で走り出した。
他に人影の気配はないが、ブービートラップが仕掛けられているかもしれない…。クレイグとリーは周囲に不自然な変化がないか視線を走らせて確かめながら、逃げる影の後を追った。三十メートルほど走り、やや人影が近くなってきた時、二人の目の前で逃走する影が二つに別れた。二人居たのだ…。
「俺は左へ行く!あんたは右へ行け!」
クレイグの左脇、数メートルを並行して走っていたリーが叫んだのに従って、クレイグは右側に避けた方の影を追った。藪の中、十メートルほど前方を走って逃げる影はこの辺りに慣れているのか、すばしっこく木の間の小さな通り道を抜けたり、小さな崖をジャンプして追跡者を振り切ろうとする。
だが、クレイグも森の中での追いかけ合いに関しては負けていなかった。どんどんと影との距離は縮まり、藪に阻まれていたその後ろ姿の全体像がついに見えてくるようになった。
かなり小さい。まさか、子供か…?
追いかけながら、クレイグは直感的に考えたが、それでも油断はできなかった。
民族戦線の兵士には女も子供もいる。だからこそ、自分はあの時…。
血溜まりの中に浮かぶ、額と左目に大きな穴の開いた子供の死体…、脳裏に浮かぶあのトンネルでの地獄の光景を、頭を横に振って意識から追い出したクレイグは、もうすぐ目の前に迫った小さな影の前に滑り込むようにして、その腰を掴むと地面に引き倒した。
すかさず、地面に倒れた小柄な体に馬乗りになり、薄い布切れのような服の上から武器を持っていないことを確かめる。体格からして、子供。武器は持っていないようだった。クレイグは、今度は頭を掴んで顔を確認した。
長い滑らかな黒髪の下から現れたのは、幼い少女の顔だった。その顔を見た瞬間、クレイグの脳裏にレジーナの顔が思い浮かび、一瞬、拘束する手の力が弱まった。その隙きに少女はクレイグの腕を振り払い、地面を這って逃げ出そうとしたが、次の瞬間には我に返ったクレイグに腰を掴まれ、引きずり戻されていた。
「確保した!」
クレイグがうつ伏せにして拘束した少女の両腕を拘束バンドで縛り上げていた時、隊内無線にトム・リー・ミンクの声が響いた。どうやら、あちらも捕まえたらしい。少女はクレイグの体の下でうつ伏せのまま、叫びながらバタついていたが、力が弱いため、拘束はすぐに完了した。
「こちらも確保。本隊と合流します。」
隊内無線に告げたクレイグは、手を背中の後ろ側で縛った少女の服の首元を掴むと、強引に立たせ、悲鳴なのか文句なのか、訳の分からない言葉を喚く少女を前に立たせて、本隊と合流する道を戻り始めた。
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登場人物紹介

*ウィリアム・ロバート・カークス


本作の主人公。階級は大尉。米陸軍特殊戦用特殊部隊「ゴースト」のブラボー分隊を率いる。

八年前、ベトナム戦争従軍中、ベトナム共和国ダクラク省のチューチリンで起きた"事件"がトラウマとなり、現在でも戦闘中に襲ってくるフラッシュバックに悩まされている。


ゲネルバでの大使館占拠事件の際には、MC-51SD消音カービンを使用し、サブアームにサプレッサーを装着したH&K P9Sを使用する。


#特徴

黒人

身長は一八〇センチ台前半。

髪の毛はチリ毛だが、短く刈っている上に何らかの帽子などを被っていることが多いため、人前に見せることは少ない。

#イーノック・アルバーン


第七五レンジャー連隊・斥候狙撃班に所属する若きアメリカ兵。階級は登場時は上等兵、「ゴースト」の作戦に参加したことで伍長へと昇進した。


彼の兄で、ベトナム時代のウィリアムの戦友だった故ヴェスパ・アルバーンの代わりに、「ゴースト」へと招集される。


実戦を経験したことはないが、狙撃の技術に関しては、兄譲りの才能を見せる。


#特徴

白人

身長一八〇センチ前半台

短い茶髪 

*クレイグ・マッケンジー

元Navy SEALsの隊員でアールと同じ部隊に所属していたが、参加したカンボジアでのある作戦が原因で精神を病み、カナダに逃亡する。その後、孤児だったレジーナを迎え入れ、イエローナイフの山奥深くで二人で暮らしていたが、ウィリアム達の説得、そして自身の恐怖を克服したいという願いとレジーナの将来のために、「ゴースト」に参加し、再び兵士となる道を選ぶ……。


*特徴

年齢29歳

くせ毛、褐色の肌

出生の記録は不明だが、アメリカ先住民の血を強く引く。

*アール・ハンフリーズ


序章から登場。階級は少尉。「ゴースト」ブラボー分隊の副官として、指揮官のウィリアムを支える。 

その多くが、戸籍上は何らかの理由で死亡・行方不明扱いになり、偽物の戸籍と名前を与えられて生活している「ゴースト」の退院達の中では珍しく、彼の名前は本名であり、戸籍も本来の彼のものである。


ゲネルバ大使館占拠事件では、ウィリアムと同じくMC-51SD消音カービンをメイン装備として使用する他、H&K HK69グレネードランチャーも使用する。


#特徴

白人

身長一九〇センチ

金髪の短髪

*イアン・バトラー


「ゴースト」ブラボー分隊の隊員の一人で階級は先任曹長。戦闘技能では狙撃に優れ、しばしば部隊を支援するスナイパーとしての役割を与えられる。

年齢は四十代後半であり、「ゴースト」の隊員達の中では最年長で、長い間、軍務についていたことは確かだが、正確な軍歴は分隊長のウィリアムでも知らない。


ゲネルバ大使館占拠事件では、降下してくる本隊を支援するため、サプレッサーを装着したレミントンM40A1を使用して、敷地内のゲネルバ革命軍兵士を狙撃する。


#特徴

白人

やや白髪かかり始めた髪の毛

*ジョシュア・ティーガーデン 


「ゴースト」ブラボー分隊の通信手を務める一等軍曹。巻き毛がかった金髪が特徴。周囲の空気を敏感に感じとり、部隊の規律を乱さないようにしている。


各種通信機器の扱いに長け、リーと同様に通信機器に関してはソビエト製のものや旧ドイツ、日本製のものでも扱える。


#特徴

白人

身長一八〇センチ台前半

金髪

*トム・リー・ミンク


「ゴースト」ブラボー分隊の隊員の一人で、階級は一等軍曹。身長一七〇センチと「ゴースト」の中では小柄な体格だが、各種戦闘能力は高く、特に近距離でのナイフ戦闘技能と爆発物の扱いには優れている。特にミサイル、ロケット系の兵器に関しては、特殊訓練の結果、ソビエト製兵器でも使用できる。


気の強い性格から、他の隊員と口論になることもあるが、基本的には仲間思いで優しい性格である。

だが、敵となったものに対しては容赦のない暴力性を発揮する。


同部隊のアーヴィング一等軍曹とはベトナム戦争時から同じ部隊に所属しており、二人の間には特別な絆がある。


#特徴

アジア系アメリカ人

身長一七〇センチ

*アーヴィング・S・アトキンソン 


「ゴースト」ブラボー分隊の隊員の一人で機銃手を務める大柄な黒人兵士。 階級は一等軍曹。


その大柄な体格とは逆に性格は心優しく、穏やかであり、部隊の中でいざこざが起こったときの仲裁も彼がすることが多い。


トム・リー・ミンクとはベトナム戦争時代からの戦友。


#特徴

黒人

身長一九五センチ

*ハワード・レイエス


「ゴースト」ブラボー分隊の隊員で、前衛を務める。階級は曹長。

父親は不明、母親はメキシコからの不法移民でヒスパニック系の血を引く。7歳の時、母親が国境の向こう側へ送還されてからは、移民が集合するスラム街で生活。学校にも通っていなかったが、自発的に本から学んだことで、米国の一般レベルを上回る知能、知識を持ち、スペイン語をはじめとする語学に堪能。


ゲネルバでの作戦時には、部隊の先頭を切って勇敢に突撃したが、後にウィリアムの身代わりとなって死亡する。

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