第二章 七話 「正義」
文字数 2,466文字
傍らで囁いたイアンに、「距離三百、左からの風、四ミル…。」とスコープを覗いたまま、イーノックは小声で返答した。彼のスコープの拡大された視界の中央には三百メートル離れた木の枝に止まって、羽を休める小鳥の姿が捉えられていた。
「よし、撃っていいぞ…。」
イアンの声とともにイーノックは肺いっぱいに空気を吸い込むと、ゆっくりと吐き出しつつ、引き金にかけた右手の人差し指を少しずつ引き込んだ。撃鉄が落ちる直前で止め、スコープの中に映る標的の姿に全ての意識を集中させる。肺の中の空気を吐き出し切り、全神経の集中が最も高まって、標的の姿、動きが全て手に取るように分かった瞬間、イーノックは残りの引き金を引絞った。
カチッ、という撃鉄の落ちる金属音とともに、軽い振動がイーノックの体に伝わる。だが、銃弾は発射されなかった。
「よし…、良くやった。実銃なら命中だ…。」
そう言いつつ、スポッターを片手に立ち上がったイアンの顔を、地面に伏射の姿勢をとっていたイーノックは見上げた。
「模擬銃をしまえ。休憩にするぞ。」
そう言い残したイアンは木陰のの方に歩いていってしまった。先程まで射撃に集中していたせいか、かけられた言葉の意味を暫く理解できなかったイーノックだったが、数秒経って、ようやく休憩が与えられたのだ、ということを理解すると、嬉しさから笑顔を隠しきれず、薄ら笑いを浮かべながら、模擬銃の分解に取り掛かった。
「先任曹長はどうして隊長がガバメントを使うのか御存知ですか?」
生い茂る葉で陽を避けられる木の下を見つけて、休憩と一緒に昼食を取っていたイーノックは向かいあった木の幹に腰掛けて、分解したワルサーPPKのスライドを磨いているイアンに問うてみた。
「何だよ、急に。」
唐突な質問に、イーノックに一瞥を送り、微笑んだイアンは再び手元のワルサーPPKに視線を戻した。
「いえ、以前、隊長に直接聞こうとしたら、リー軍曹に、絶対に聞くな、と叱責されたので…。」
「ああ…。リーがねぇ…、何て怒られたんだよ。」
イアンは分解したワルサーのスライドに油を差しながら聞いた。
「なんか、浮気されたやつに、浮気された理由を聞くくらい酷いことだって…。」
イアンは苦笑した。
「よく分からん例えだな…。まぁ、だが、人それぞれ銃にも好みがあるだろ…。」
「それもあるかもしれませんけど…。でも、訓練や整備の時の大尉のガバメントの扱いを見ているとどうしても、それだけではないような気がするんです…。」
言葉ではうまく説明できない機微を何とか伝えようと、大ぶりのジェスチャーをしながら話すイーノックを見返したイアンは、「何を言いたい…?」と問うた。
「いえ…、気のせいかもしれませんが…。」
突然、真面目な顔をして自分を見返してきた上官に、やや自信なさげに地面を向いたイーノックは呟くようにして続けた。
「大尉の場合は、ガバメントという銃が気に入っているんじゃなくて、あのガバメント、そのものに手放せない理由があるんじゃないかな…、と思うんですよね…。」
真剣な顔をして話す部下に、「考えすぎだろ。」とイアンは笑った。
「そうですかね…。」
同意を得られず、所在なさげな目をイアンの手元に向けたイーノックは思い出したように問うた。
「そういえば、前に先任曹長は御自分のワルサーに強い思い入れがあると仰っていましたが、どういう思い入れがあるんですか?」
「そんなこと言ったかな…。」
突然、自分に向けられた質問に狼狽したイアンはワルサーPPKを傍らに置き、頭を掻きながら、暫く考えると答えた。
「まぁ、あるとすれば過去の自分を戒めるためだな…。」
頭の上に生い茂る木の葉の間から漏れる木漏れ日を見上げながら、イアンは言葉を繋いだ。
「戒め…、ですか…。」
呆然とした様子で聞き返した部下の顔を見返して、イアンは頷き返した。
「ああ、そうだ。俺はお前の生まれるよりも前から戦場にいた。そして、色んな正義を信じて戦い、多くの間違いを犯してきた。」
「正義…。」
「そう、正義だ…。そいつは戦争をする大義となって、前線で戦う兵士達の精神の拠り所となるような重大なものなのに、いとも簡単にひっくり返るんだ…。戦場に絶対的な正義など存在しないからな…。」
木々の間を駆け抜けた風が二人の間を流れ、枝の上に止まっていた小鳥達が飛び立ち、風に洗われた葉が宙を舞った。
「兵士達は与えられた正義を信じて戦う。だが、もしその正義が間違っていると気づいた時、彼らは正気を保てるだろうか?自らの為した残虐な行為の結果と正面から向き合うことができるだろうか?」
珍しく、真面目な話をする老兵の目の中に輝る戦場の狂気に見とれて、イーノックは話に聞き入っていた。
「だから、兵士は何が本当に正しいか、どんな状況であっても考え続けなければならない。しかし、本当の正義を見極めるのは言葉で言う以上に難しい。だからこそ、俺たち兵士は与えられた正義にすがり付き、支配者にとって都合の良い道具に成り下がる。そして、自らの犯した罪に対する自責に一生苛まれることになる。」
そう言って、先程まで空を見上げていたイアンが自分の方を向き、一瞬、ドキリとしたイーノックだったが、老兵の目に既に狂気の炎の輝きはなかった。狂気の片鱗の代わりに、イアンは傍らのワルサーPPKを手に取って、イーノックに見せた。
「こいつはな、俺の初めての間違いを代弁するもんなんだ。俺の初めての罪…。これがあれば、俺はいつだって、自分を冷静に見つめ直すことができる。今、自分がどこに立って、何をしようとしているのか…、自分を見失わずに済むんだ…。」
まだ想像もできない世界の話に呆然とした表情を浮かべるイーノックの前からワルサーPPKをホルスターにしまったイアンは笑顔を浮かべて立ち上がった。
「お前もそういう心の在り処を用意しとけ。でなきゃ、遅かれ早かれ、戦争の狂気に飲み込まれるぞ。」
そう言って、歩み去っていた老兵の背中を見つめたイーノックは独り言ちた。
「心の在り処…、ですか…。」