第二章 六話 「予感」
文字数 2,252文字
「曹長、どこまで行くんですか…。疲れましたよ…。」
すでに歩き始めて五時間、遂に力尽きたイーノックはその場に手をつき、喘ぐように声を出した。タイに到着してから殆ど毎日、この訓練を課せられている彼の体は厳しい訓練にかなり慣れてきていたが、それでも道も整えられていない山の中を数時間も歩き続けるのは、つい数週間前まで通常の行軍訓練しかしたことのなかったイーノックには耐え難い辛苦だった。それに加えて、三十四度の高温と高湿度、空には亜熱帯の太陽の光が照りつけている。だが、イーノックの数メートル前を歩いていた五十代の老兵は全く平気な顔を振り向かせた。
「どこまでって…。お前の体がこの土地に慣れ切るまでだよ…。」
まるで当然のことのようにイアン・バトラーはそう諭した。
「慣れるって…。俺、ジョージア州育ちですよ…。」
汗でドロドロになった顔をしかめて、そう言ったイーノックを、
「ジョージアも十分熱いじゃねぇか。ほら、あと十分歩いたら休憩にしてやるから、行くぞ。」
と簡単にあしらったイアンは再び山の斜面を登り始めた。その背中を睨み、「まじかよ…。」と呟いたイーノックは、つばを吐き、熱射病の状態に半分、足を踏み入れている体に鞭を打って、新たな一歩を踏み出した。
その頃、地球の反対側に位置するCIA本部「ラングレー」では"シンボル"の動向を調査するために、臨時に創設された部署の班長となったコーディがまとめた調査結果の資料をリロイ・ボーン・カーヴァーに手渡しているところだった。
「やはり、"ゴースト"は動くか…。」
「はい…、近日中、おそらくは二、三日の内には実働班がカンボジアへと潜入するのではないか、と思われます。」
十数ページはある資料だったが、ざっ、と概観し、コーディの意見も考え合わせて、最悪の事態が進みつつあることを察したリロイは椅子に深く持たれかかり、腕を組んで嘆息を漏らした。
「もっと早くに止められなかったのか…。」
机の上の資料を見つめながら呟いたリロイに「はい?」とコーディが聞き返したが、その声はリロイの耳の中には入っていなかった。
「私達の前任者が推し進めたマンハッタン計画の結果、生まれた彼がまた新たな惨劇を生むのか…。そして、その惨劇は血の涙として、また次の世代に受け継がれる…。」
リロイの頭の中には"愛国者達の学級"で初めて出会った少年時代のエルヴィン・メイナードの面影が次々と浮かんでは消えていっていた。
「お言葉ですが、課長。まだ、諦めるのは早いかと…。」
唐突に記憶の回想の中に割り込んできたコーディの声にリロイは我に返った。コーディの方を見返すと、彼は真剣な眼差しをこちらに向けていた。
「確かに、既存の特殊部隊で本任務に投入できる部隊はないでしょう。しかし、一つだけ…。まだ何の任務も与えられていない待機状態で、尚かつ"ゴースト"を殲滅する力を持った部隊が一つだけ御座います…。」
感覚的にはコーディの言葉をが何を指しているのかすぐに分かったが、理解するのには時間のかかったリロイは一拍の沈黙の後、呻くように彼の言わんとすることを声に出した。
「"ゴースト"を殲滅する力…、まさか、"デルタ"か?」
コーディは何も言わずに、ただ静かに頷いた。
「いや、しかし第1特殊部隊指揮官のランシング大佐は熱狂的な"シンボル"のシンパだと聞くぞ。それなのに、デルタを動かすことができると思うのか…?」
うろたえるリロイにコーディはオフィスの机の上に身を乗り出して、静かだが先程よりも芯の強い言葉で続けた。
「課長は先程、マンハッタン計画の二の舞にはしたくないとおっしゃいました。それならば、まずは試してみるべきです。」
部下の真剣な眼差しに押されたリロイは、半ば上の空で頷いた。
「確かにな…。君の言う通りだ。」
上司がようやく、その気になってくれたことを理解したコーディは姿勢を正し、少しの笑顔を浮かべた。
「"シンボル"も一枚岩ではありません。敵対する勢力も議会内にある。全てが彼らの思うように動くわけではないと思います。ゲネルバでのことを武器に、彼らの弱みを突いていけば、可能性は必ずあります!」
最後に自信に溢れた言葉を残した部下が部屋から出ていった後、暫くの間、思索に耽っていたリロイは、ふと思った。まだ、編成途中とはいえ、メイナードは何故、"デルタ"ではなく、"ゴースト"を選んだのだ?単に彼の直属の部隊だからか…?いや、違う…。
リロイは回転椅子から立ち上がり、窓際まで歩み寄ると、その向こうに広がる闇を見つめて、恐ろしい事実に気づいてしまったかもしれないことに胸騒ぎを止められなかった。
もしかしたら…、奴は"シンボル"を利用しているだけで、その狙いはもっと別のところにあるのかもしれない…。
頭の中で考えを走らせながら、リロイは今まで余りにも一般的なものの考えしかしていなかった自分を責めた。
存在そのものがあれほど常識離れした男を相手にするには、こちらも普通の考え方では追いつけない。奴の目的は…、メイナードのこの作戦にかける思いとはきっと…、復讐だったのだ…!
その結論に辿り着いた時、リロイは目の前の防弾ガラスを全力で殴らずにはいられなかった。