第一章 十五話 「病根」

文字数 2,289文字

一九七五年 二月十日

夜のニューヨーク・ハドソン川、岸から数百メートル離れた場所に停留するクルーズ・ボートの前部甲板に立って、夜の空気を割く風を身体全体で感じている男の姿があった。黒スーツの上に潜水艦乗り達が使うような毛皮のコートを着こんだその男、エルヴィン・メイナードはウィリアム達が向かった北の方角を見ながら思索していた。
彼らはもう既にクレイグ・マッケンジーと出会ったはずだが、説得は上手くいっただろうか…。いや、未だに連絡がないということは…。
まぁ、それほど簡単にはいかないだろう、とメイナードは思ったが、同時に焦りも感じていた。
ここに自分が呼ばれたということは、もう残された時間はそれほど多くないということを意味する。恐らくは作戦の実行時期の繰り上げ…。
早くしなければ、時間はないぞ。ウィリアム…!
北の空を見上げながら、メイナードが胸の内で彼の部下に語りかけた時、軽いモーター音とともにメイナードの右手方向、マンハッタンの高層ビル群の光の海を背にして、一艇の小型ボートが接近してきた。
藍色の中に灰色の雲の影を認めることができる空の下で早くも夜に備えて電気をつけた、幾つもの人工灯の光が高層ビル郡、マンハッタンの摩天楼の影を形づくり、その下では何万台もの車のヘッドライトとそれらの通行を規制する信号機が光の群れを織り成して、忙しなく動いている。
忙しいものだ…。
あの光、全てではなくてもその多くを人に供給する力が如何程までに毒々しいものなのかを、あの町の人間達は知らない。当然だ、彼らはあれを使ったことはあっても、使われたことはないのだから…。
そんなことを考えながら、メイナードが摩天楼の方を見つめていると、ボートがクルーザーの舷側に接舷し、二人の黒服姿のボディーガードに体を支えられながら、ファーディナンド・モージズが姿を現した。
「いやいや、わざわざすまんかったね。君も忙しいのに、急に呼び出して。」
メイナードが彼の元に歩み寄ると、白髭と白髪をたくわえた、御歳七十歳を超える上院議員が腰の曲がった体を杖で支えながら、しわがれた声でメイナードに詫びた。心なしか、つい先日、別荘地で会った時と比べて彼の姿はかなり衰えたようにメイナードには見えた。
「早速話だが、長いことはかからん。君の時間をこれ以上、奪うわけにはいかんのでね…。」
ファーディナンドが船の前方に歩き始めると同時に、そのすぐ後ろに二人のボディーガードがついたので、メイナードは彼らの後ろについて話をすることになった。
「例の作戦の実行を早めねばならんかもしれん…。」
老議員の声は暗いものだった。
「上層部会の決定ですか。」
「ああ…。」
前部甲板のところまで来て、メイナードの方を振り返ったファーディナンドは、白髪に覆われた頭を小さく縦に振った。
「どうやら、当初の予定よりかなり早くホー・チ・ミン作戦が実行されるらしい。」
ファーディナンドは、マンハッタンの摩天楼の方を向いて続けた。
「現在、北からベトナム民主共和国の主力部隊がサイゴンを目指して南下中。カンボジア国境地帯でもNLF(南ベトナム解放民族戦線)の活動が活発化しているとの情報がある。」
メイナード達の作戦の実行にはダクラク省が形の上だけでもベトナム共和国(南ベトナム)の支配圏内に入っていた方が都合が良い。だが、ファーディナンドの話によると、その省都バンメトートにも北ベトナム軍の機械化大隊が迫っているとのことだった。
「それで…、新しい作戦の決行は、いつ頃にされますか。」
問うたメイナードに、ファーディナンドは唸ると口を開いた。
「出来れば、余裕をもって、五月に決行したかったのだが…。そこまで持たんだろうな、サイゴンは…。」
夜空を見上げながら呟くように言ったファーディナンドはメイナードの方を再び向いた。
「決行は来月の一週目にでも始めたい。」
承知しました、と返答したメイナードに、ファーディナンドはさらに問うた。
「君の部下達の準備は間に合いそうか?」
川の上を流れる風の勢いが強くなる。コートの上から肌を打つ寒気も同時に強くなる。
「アルファ分隊の準備はできています。しかし、ブラボー分隊の方は、まだ欠員が一人空いたままでして…。現在、分隊長のカークス大尉が兵士のリクルートのためにカナダに出向いています。」
メイナードの答えを聞いて、溜め息をついた老人は腰の曲がった体を北の方に向けた。
「カナダか…。」
夜のハドソン川には他にも船の姿がいくつかあったが、川の上は静まりかえっていて、聞こえるものといえば、微かな波の音と互いの声だけだった。
「明日にでも、彼らをこちらに戻してくれ。他の隊員達も…、すぐにでもベトナムに向かわせるんだ。」
「了解しました。」
有無を言わせぬ口調の老議員の言葉に返答したメイナードにファーディナンドは笑顔とともに口調を緩めて続けた。
「ところで、大佐…。身体の方は大丈夫かね。」
外見には出さなかったがメイナードの胸の内は老人の言葉に動揺していた。
何でもお見落としというわけか…。
「お互い、そう長くはないかもしれんな……。」
そう静かにいって、老人はボディーガードに補助されながら、小型ボートに戻り、クルーザーにはメイナードだけが残された。
小型ボートが遠ざかっていく、マンハッタンの摩天楼の上で、煌々と輝く三日月の姿がハドソン川の黒い川面に反射している。
もしかしたら、これが自分の最後の戦いになるかもしれない…。
メイナードは自分の体の中に巣作った毒々しい病根の存在を感じながら、そう思った。
だからこそ、何としてもやりとげなければならない、この作戦は…!
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登場人物紹介

*ウィリアム・ロバート・カークス


本作の主人公。階級は大尉。米陸軍特殊戦用特殊部隊「ゴースト」のブラボー分隊を率いる。

八年前、ベトナム戦争従軍中、ベトナム共和国ダクラク省のチューチリンで起きた"事件"がトラウマとなり、現在でも戦闘中に襲ってくるフラッシュバックに悩まされている。


ゲネルバでの大使館占拠事件の際には、MC-51SD消音カービンを使用し、サブアームにサプレッサーを装着したH&K P9Sを使用する。


#特徴

黒人

身長は一八〇センチ台前半。

髪の毛はチリ毛だが、短く刈っている上に何らかの帽子などを被っていることが多いため、人前に見せることは少ない。

#イーノック・アルバーン


第七五レンジャー連隊・斥候狙撃班に所属する若きアメリカ兵。階級は登場時は上等兵、「ゴースト」の作戦に参加したことで伍長へと昇進した。


彼の兄で、ベトナム時代のウィリアムの戦友だった故ヴェスパ・アルバーンの代わりに、「ゴースト」へと招集される。


実戦を経験したことはないが、狙撃の技術に関しては、兄譲りの才能を見せる。


#特徴

白人

身長一八〇センチ前半台

短い茶髪 

*クレイグ・マッケンジー

元Navy SEALsの隊員でアールと同じ部隊に所属していたが、参加したカンボジアでのある作戦が原因で精神を病み、カナダに逃亡する。その後、孤児だったレジーナを迎え入れ、イエローナイフの山奥深くで二人で暮らしていたが、ウィリアム達の説得、そして自身の恐怖を克服したいという願いとレジーナの将来のために、「ゴースト」に参加し、再び兵士となる道を選ぶ……。


*特徴

年齢29歳

くせ毛、褐色の肌

出生の記録は不明だが、アメリカ先住民の血を強く引く。

*アール・ハンフリーズ


序章から登場。階級は少尉。「ゴースト」ブラボー分隊の副官として、指揮官のウィリアムを支える。 

その多くが、戸籍上は何らかの理由で死亡・行方不明扱いになり、偽物の戸籍と名前を与えられて生活している「ゴースト」の退院達の中では珍しく、彼の名前は本名であり、戸籍も本来の彼のものである。


ゲネルバ大使館占拠事件では、ウィリアムと同じくMC-51SD消音カービンをメイン装備として使用する他、H&K HK69グレネードランチャーも使用する。


#特徴

白人

身長一九〇センチ

金髪の短髪

*イアン・バトラー


「ゴースト」ブラボー分隊の隊員の一人で階級は先任曹長。戦闘技能では狙撃に優れ、しばしば部隊を支援するスナイパーとしての役割を与えられる。

年齢は四十代後半であり、「ゴースト」の隊員達の中では最年長で、長い間、軍務についていたことは確かだが、正確な軍歴は分隊長のウィリアムでも知らない。


ゲネルバ大使館占拠事件では、降下してくる本隊を支援するため、サプレッサーを装着したレミントンM40A1を使用して、敷地内のゲネルバ革命軍兵士を狙撃する。


#特徴

白人

やや白髪かかり始めた髪の毛

*ジョシュア・ティーガーデン 


「ゴースト」ブラボー分隊の通信手を務める一等軍曹。巻き毛がかった金髪が特徴。周囲の空気を敏感に感じとり、部隊の規律を乱さないようにしている。


各種通信機器の扱いに長け、リーと同様に通信機器に関してはソビエト製のものや旧ドイツ、日本製のものでも扱える。


#特徴

白人

身長一八〇センチ台前半

金髪

*トム・リー・ミンク


「ゴースト」ブラボー分隊の隊員の一人で、階級は一等軍曹。身長一七〇センチと「ゴースト」の中では小柄な体格だが、各種戦闘能力は高く、特に近距離でのナイフ戦闘技能と爆発物の扱いには優れている。特にミサイル、ロケット系の兵器に関しては、特殊訓練の結果、ソビエト製兵器でも使用できる。


気の強い性格から、他の隊員と口論になることもあるが、基本的には仲間思いで優しい性格である。

だが、敵となったものに対しては容赦のない暴力性を発揮する。


同部隊のアーヴィング一等軍曹とはベトナム戦争時から同じ部隊に所属しており、二人の間には特別な絆がある。


#特徴

アジア系アメリカ人

身長一七〇センチ

*アーヴィング・S・アトキンソン 


「ゴースト」ブラボー分隊の隊員の一人で機銃手を務める大柄な黒人兵士。 階級は一等軍曹。


その大柄な体格とは逆に性格は心優しく、穏やかであり、部隊の中でいざこざが起こったときの仲裁も彼がすることが多い。


トム・リー・ミンクとはベトナム戦争時代からの戦友。


#特徴

黒人

身長一九五センチ

*ハワード・レイエス


「ゴースト」ブラボー分隊の隊員で、前衛を務める。階級は曹長。

父親は不明、母親はメキシコからの不法移民でヒスパニック系の血を引く。7歳の時、母親が国境の向こう側へ送還されてからは、移民が集合するスラム街で生活。学校にも通っていなかったが、自発的に本から学んだことで、米国の一般レベルを上回る知能、知識を持ち、スペイン語をはじめとする語学に堪能。


ゲネルバでの作戦時には、部隊の先頭を切って勇敢に突撃したが、後にウィリアムの身代わりとなって死亡する。

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