第一章 十五話 「病根」
文字数 2,289文字
夜のニューヨーク・ハドソン川、岸から数百メートル離れた場所に停留するクルーズ・ボートの前部甲板に立って、夜の空気を割く風を身体全体で感じている男の姿があった。黒スーツの上に潜水艦乗り達が使うような毛皮のコートを着こんだその男、エルヴィン・メイナードはウィリアム達が向かった北の方角を見ながら思索していた。
彼らはもう既にクレイグ・マッケンジーと出会ったはずだが、説得は上手くいっただろうか…。いや、未だに連絡がないということは…。
まぁ、それほど簡単にはいかないだろう、とメイナードは思ったが、同時に焦りも感じていた。
ここに自分が呼ばれたということは、もう残された時間はそれほど多くないということを意味する。恐らくは作戦の実行時期の繰り上げ…。
早くしなければ、時間はないぞ。ウィリアム…!
北の空を見上げながら、メイナードが胸の内で彼の部下に語りかけた時、軽いモーター音とともにメイナードの右手方向、マンハッタンの高層ビル群の光の海を背にして、一艇の小型ボートが接近してきた。
藍色の中に灰色の雲の影を認めることができる空の下で早くも夜に備えて電気をつけた、幾つもの人工灯の光が高層ビル郡、マンハッタンの摩天楼の影を形づくり、その下では何万台もの車のヘッドライトとそれらの通行を規制する信号機が光の群れを織り成して、忙しなく動いている。
忙しいものだ…。
あの光、全てではなくてもその多くを人に供給する力が如何程までに毒々しいものなのかを、あの町の人間達は知らない。当然だ、彼らはあれを使ったことはあっても、使われたことはないのだから…。
そんなことを考えながら、メイナードが摩天楼の方を見つめていると、ボートがクルーザーの舷側に接舷し、二人の黒服姿のボディーガードに体を支えられながら、ファーディナンド・モージズが姿を現した。
「いやいや、わざわざすまんかったね。君も忙しいのに、急に呼び出して。」
メイナードが彼の元に歩み寄ると、白髭と白髪をたくわえた、御歳七十歳を超える上院議員が腰の曲がった体を杖で支えながら、しわがれた声でメイナードに詫びた。心なしか、つい先日、別荘地で会った時と比べて彼の姿はかなり衰えたようにメイナードには見えた。
「早速話だが、長いことはかからん。君の時間をこれ以上、奪うわけにはいかんのでね…。」
ファーディナンドが船の前方に歩き始めると同時に、そのすぐ後ろに二人のボディーガードがついたので、メイナードは彼らの後ろについて話をすることになった。
「例の作戦の実行を早めねばならんかもしれん…。」
老議員の声は暗いものだった。
「上層部会の決定ですか。」
「ああ…。」
前部甲板のところまで来て、メイナードの方を振り返ったファーディナンドは、白髪に覆われた頭を小さく縦に振った。
「どうやら、当初の予定よりかなり早くホー・チ・ミン作戦が実行されるらしい。」
ファーディナンドは、マンハッタンの摩天楼の方を向いて続けた。
「現在、北からベトナム民主共和国の主力部隊がサイゴンを目指して南下中。カンボジア国境地帯でもNLF(南ベトナム解放民族戦線)の活動が活発化しているとの情報がある。」
メイナード達の作戦の実行にはダクラク省が形の上だけでもベトナム共和国(南ベトナム)の支配圏内に入っていた方が都合が良い。だが、ファーディナンドの話によると、その省都バンメトートにも北ベトナム軍の機械化大隊が迫っているとのことだった。
「それで…、新しい作戦の決行は、いつ頃にされますか。」
問うたメイナードに、ファーディナンドは唸ると口を開いた。
「出来れば、余裕をもって、五月に決行したかったのだが…。そこまで持たんだろうな、サイゴンは…。」
夜空を見上げながら呟くように言ったファーディナンドはメイナードの方を再び向いた。
「決行は来月の一週目にでも始めたい。」
承知しました、と返答したメイナードに、ファーディナンドはさらに問うた。
「君の部下達の準備は間に合いそうか?」
川の上を流れる風の勢いが強くなる。コートの上から肌を打つ寒気も同時に強くなる。
「アルファ分隊の準備はできています。しかし、ブラボー分隊の方は、まだ欠員が一人空いたままでして…。現在、分隊長のカークス大尉が兵士のリクルートのためにカナダに出向いています。」
メイナードの答えを聞いて、溜め息をついた老人は腰の曲がった体を北の方に向けた。
「カナダか…。」
夜のハドソン川には他にも船の姿がいくつかあったが、川の上は静まりかえっていて、聞こえるものといえば、微かな波の音と互いの声だけだった。
「明日にでも、彼らをこちらに戻してくれ。他の隊員達も…、すぐにでもベトナムに向かわせるんだ。」
「了解しました。」
有無を言わせぬ口調の老議員の言葉に返答したメイナードにファーディナンドは笑顔とともに口調を緩めて続けた。
「ところで、大佐…。身体の方は大丈夫かね。」
外見には出さなかったがメイナードの胸の内は老人の言葉に動揺していた。
何でもお見落としというわけか…。
「お互い、そう長くはないかもしれんな……。」
そう静かにいって、老人はボディーガードに補助されながら、小型ボートに戻り、クルーザーにはメイナードだけが残された。
小型ボートが遠ざかっていく、マンハッタンの摩天楼の上で、煌々と輝く三日月の姿がハドソン川の黒い川面に反射している。
もしかしたら、これが自分の最後の戦いになるかもしれない…。
メイナードは自分の体の中に巣作った毒々しい病根の存在を感じながら、そう思った。
だからこそ、何としてもやりとげなければならない、この作戦は…!