第三章 一話 「無線封鎖解除」
文字数 2,555文字
亜熱帯のジャングル奥深くで、アールとリー、アーヴィング、イアンの四人がそれぞれ四方の警戒につく中、破壊されたM114装甲偵察車のの陰に座ったウィリアムは傍らのジョシュアが背負うAN/PRC-77野戦無線機からコードで伸びる交信機に向かって呼びかけていた。
カンボジア現地時刻、三月十一日午前六時。無線封鎖解除と最初の定時連絡の時間であった。予定よりも早い速度で行軍することができ、既に予定回収地点から五キロ強という地点まで辿り着いた彼らの頭上では、空に登り始めた太陽の光が山の陰から姿を現し、熱帯林の葉を青々しく染めていた。
「これなら、正午の回収には余裕をもって間に合うな…。」
頭上を覆う樹葉のカーテンから差し込んでくる木漏れ日を見つめながら、敵の気配のないジャングルの中で警戒態勢についていたアール・ハンフリーズが左手首の軍用腕時計の示す時刻を見て呟いた。
「ゴースト。こちら、コマンド。よく聞こえるぞ。」
アールが安堵を感じつつも警戒を続ける中、本部との交信が繋がったウィリアムは無線の向こうの指揮室に状況の説明を始めた。
「はい。"パッケージ"、ユーリ・ホフマンは無事です。」
対戦車弾の直撃を喰らった車体前面のアルミニウム装甲に大穴を穿たれ、倒れた熱帯樹の幹に乗り上げるようにして沈黙しているM114装甲偵察車のスクラップにもたれ掛かかったクレイグは、ウィリアムの無線連絡の声を聞きながら、傍らで小さく座り込んでいるユーリの肩を優しく叩いた。
「大丈夫か?」
「ああ…、うん…。大丈夫だ…、大丈夫だよ…。」
まだ肩を震わせながらも、クレイグの方を向いて英語で返したユダヤ人科学者の方を見つめていたイーノックも、まだ初めて体験した戦場の興奮と恐怖が体から抜けきっていなかった。今でも目を閉じれば、襲いかかってくるスペツナズの大男やスコープの視界の中で脳髄を散らした民族戦線の兵士達が闇の中から現れそうだった。頭の中で反芻する銃声や爆発音、そして悲鳴が意識の中で何度も響く中、イーノックは微かに震える自分の手の平を見つめて自問した。
本当に俺は殺ったのか…?あれほど、多くの人達を…。
イーノックが初めて体験した戦場の残像に畏怖し、震えていた頃、周辺警戒に出ていたリーとアーヴィングはそれぞれのポジションで身を隠し、周囲を偵察していたが、動きといえば動物のそれしかないジャングルの中でスティーブンスM77Eショットガンを抱いて、熱帯樹の陰に身を隠していたトム・リー・ミンクは思わずあくびを吐いて、
「早く帰れねぇかな…。」
と基地に戻ってからのことを想像しながら呟いていたが、直後に「リー!気を緩めるな!奴らはジャングルに溶け込んで来るぞ!」とイアンの叱責する声が無線に走ったことで、木の上に登った先任曹長に自分の姿を監視されていたことを悟り、吐き出しかけていたあくびを飲み込み、再び周囲の警戒に意識を向けた。姿勢を直したリーの姿をM21狙撃銃のスコープの中に確かめ、視界の拡大された目を別の方向に向けたイアンだったが、彼もリーの気持ちはよくわかった。スコープ越しの目を巡らせても、見えるのは動きのない、静寂に包まれたジャングルだけ…、偵察を目的とした少人数部隊の影すら見えない。
追撃はないな…。このまま、何事もなく進んでくれれば…。
木の上に登ったイアンが危うく緩めそうだった警戒を再び引き締めた時、ウィリアムは本部との無線更新を継続していた。
「基地に残していた資料はヘリコプターに載っていたものも含め、全て破棄しました。ただ…。」
そこまで無線に告げたところでウィリアムは言葉を切り、ジョシュアと顔を見合わせた。ほとんど全てうまく行った作戦の中で、一つだけ計画通りに進まなかったことがある…。イリヤ・ポモシュニコフの死だ…。回収目標死亡のため、リカバリーは不能だが、そのことも報告しなければならなかった。
目を合わせたジョシュアが目を俯け、仕方ないでしょう、という風に小さく、静かに頷いたのを見たウィリアムは交信を止めていた無線に報告の残りを続けた。
「"パッケージ・ツー"、イリヤ・ポモシュニコフは回収できませんでした。」
報告を終えたウィリアムが無線の向こう側の指揮室からの指令を聞いている数秒の間、傍らで警戒についているジョシュアからすれば、交信の内容は聞こえず、本部からどんな命令を与えられているのか知る由はないので、彼にはその命令が厳しいものでないことを祈ることしかできなかった。
「はい。死亡です。ええ、"パッケージ・ワン"は無事です。」
無線の向こう側のメイナードからの指令を聞いた数秒の沈黙の後、そう無線に返答したウィリアムは「交信終わり。」と告げると、無線の交信機をジョシュアに返し、今度は小型の個人携帯隊内用無線の回線を開いて、各隊員に指令を伝えた。
「回収作戦は計画通りに決行。今日の十三時までには回収ポイントに到着し、迎えの哨戒艇を待つ。十分後に出発だ。」
ウィリアムが隊内無線に告げると同時に、周囲に展開していた隊員達は行軍再開の準備を始めた。蒸し暑く、快適とは言えなかったが、彼らの周囲を囲んでいるのは、戦場とは全く相容れない平穏なジャングルの静けさだった。
「交信終わり。」の言葉とともに、無線機を通信士に返したメイナードは傍らに立っているサンダースの方を向いた。
「彼らは無事だ。」
この一日半の間、気がかりに思い続けていた仲間の安全を確かめることができて、サンダースは険しかった表情を微かに緩めた。
「作戦目標に関しても、標的の片方を失ったようだが、最も重要なものは手に入れてくれている。回収については、時刻、方法の両方とも計画通りに実行する予定だ。」
仲間の無事と任務の状況を聞いたことで、サンダースだけでなく、通信士達も表情を和ませ、作戦指揮室の中に漂う緊張が一気に解れたが、その中でメイナード一人だけは無表情のまま、指揮室の壁に備え付けられた電子板を見つめていた。彼が見つめる電子版の上には、黄色のLED光点の集合がトンレ・スレイポック川流域のカンボジア/南ベトナム国境の拡大地図を描いており、その中で一点の赤色光の明滅がウィリアム達の回収予定地点を示していた。