第四章 三十三話 「徴兵通知」
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そして、ウィリアムと"彼"もまた、葛藤の末に祖国の命令に従った内の一人であったが、彼らが国の命令に従ったのは懲罰や市民権を失うことを恐れたからではなかった。共産主義という悪と戦うためにアフリカ系アメリカ人や貧困層を始めとする、祖国に恵んでもらえなかった人々が中心となって戦っているベトナム戦争の話を聞き、その中に身を投じることで本当の意味で全ての人を救う正義の意味を見極めようと考え、徴兵命令に従ったのだった。
軍隊という異質空間での初めての生活、その中で数々の人々との出会いがあった、八週間の基礎訓練と十三週間の実戦訓練の後、ウィリアムと"彼"、そして彼らと同時に入隊した大学の友人達は遂に大いなる正義のための戦いが行われているベトナムの地へと派遣されたのだった。
死への恐怖、人を殺すという想像すらできない未知の境地…、そんなものに恐れを感じながらも、ベトナムへと向かう飛行機の中でウィリアムは胸のどこかで希望が高鳴るのを感じていた。
これで世界を変えることのできる正義が見つけられる…。そう考えていた。だが、行き着いたでベトナムの地で彼を待っていたのは正義の戦争とは全く真逆の、暴虐と侮蔑と理不尽が蔓延するこの世の地獄だった。
「敵を人間と思うな。情けは一切無用。動く者は全て殺せ。」
ウィリアムは遠い過去に見た凄惨な戦場の様子を脳裏に思い浮かべながら、"その戦争"を知らない若者に自分の目にしたものを、ゆっくりと語った。
「そんな理不尽と非人道的行いが満ちた戦争の中で私が君のお兄さんと一緒に派遣された中部高原の基地がFSB(火力支援基地:Fire Support Base)"アルバトロス"だった…。そこでは駐屯するグリーンベレーの少佐がCIAとともにある敵性戦闘員を血眼で探していた…。」
かつてはサイゴンで教師をしていたという男、一九六三年の軍事クーデターで南ベトナムの国土全体が混沌とする中、静かに表舞台から姿を消したその男は南ベトナム西部の中部高原に身を潜め、ウィリアム達が派兵された時には解放民族戦線や農村の一般人に 対して、ホーチミンの主張の正しさとアメリカ・南ベトナムの暴虐と歴史認識の誤りを語っているとされ、中立派の一般市民も扇動している危険人物として、グリーンベレーは彼を第一級の暗殺標的に指定して、その居場所を探していた。そんな男の話を聞いた時、敵の指導者の話であるはずなのにウィリアムは何故か胸が高揚したのを今でも覚えている。その理由は…。
「彼が民族戦線のゲリラ達に絶対の正義を説いていると聞いたからだ…。」
ウィリアムはその男の話を聞いた八年前の心情を回顧しながら語りを続けた。ともすれば、絶対の正義など存在しないと一蹴してしまいそうだが、機銃掃射とナパームの炎の中を味方の屍を越え、死をも恐れずに突撃してくる民族戦線の兵士達の姿と覚悟を直で見た者からすれば、その存在には十分に信憑性があるとウィリアムだけでなく、基地の司令やグリーンベレーの指揮官達も信じていた。
あの覚悟は国家のためなどという、ありふれた理由ではない…。死すら超越する正義が確かにこの世には存在する。そして、その語り手が敵であるならば、絶対に息の根を止めなければならない…。そう判断したグリーンベレーとCIAの結論は正しかったが、捜索作戦は彼らが思うようには全く進まなかった。
圧倒的な正義の語り手の魅力はウィリアム達と協力して戦うはずの南ベトナム軍やCIDG(民間不正規戦グループ)の中にも根強い信者を作っていた。ウィリアム達が作戦を補佐するグリーンベレーの部隊が何度も待ち伏せをし、敵の陣地に奇襲攻撃をかけ、内通者まで使って偽の情報を流して敵を陽動しようとしても、彼らが探している男は一向に捕らえられず、尻尾すら見せなかった。
「絶対的な正義が彼を守っているようだった…。」
手段のためならどんな残虐な行為でもする、敵と疑わしければ民間人でも撃ち殺し、果ては戦火数を水増しするためにその遺体を損壊するような外道にまで落ちたウィリアム達の前には絶対に越えられない大きな壁があり、彼らが探し求める正義の語り手はその向こう側に広がる別の世界にいるようだった。
理性が完全に支配し、差別も暴力もない世界…、彼はそこにいる。しかし、今の自分ではそこには行けない…。
グリーンベレーの隊員が虐殺した民間人の遺体を処分しながら、そう思った日の、肌を焦がす亜熱帯の熱気をウィリアムは今でも思い出すことができる。
このままではいけない…、今自分がしていることは正義とは程遠い暴虐だ…。俺は絶対的な正義を見つけたい。だが、この戦場で兵士としての命令に縛られた自分には一体何ができるのだろうか…。
戦場での自分自身の望まぬ変化に気づいたウィリアムは遠くなった理想に打ちひしがれたが、戦争によって人間性が変わってしまったのはウィリアムだけではなかった。
標的の男を探し求める中で多くの仲間が残酷な死を遂げ、その中にはウィリアムと同じ大学から来た親友も居た。彼らの死にウィリアムは悲しみと無力感に苛まれたが、ウィリアムと同じ部隊に配属されていた"彼"は違った。
必ず、"正義の語り手"を見つけて殺す。そして、その後で仲間達を殺したベトコンどもも全員皆殺しにする…。
アメリカに居た時、敵意の嵐の中で自分自身を犠牲にしながらもウィリアム達を助けた心優しき"彼"の、純粋で正義感に満ちた心は復讐の念に満ち溢れていた。
「私は自分の正義のために"正義の語り手"に会いたいと思っていた。だが、"彼"は自分の正義に従って、"正義の語り手"を殺そうとしていた…。」