第二章 三十一話 「新たな戦闘の予感」
文字数 5,158文字
地面の下に迷路の如く張り巡らされた地下トンネルの最深部にある作戦会議室にて、最高指揮官の彼が各部隊長に指示を出し終わり、皆に解散と作業への取りかかりを指示した丁度その時、専任無線兵の伍長が慌てた様子で彼の元に駆け寄ってきた。
「上佐!連絡です!例の軍事顧問団基地のことのようです!」
身長が特段高いわけではないが細身のブイは焦り切った様子の無線兵とは全く正反対の落ち着いた態度で部屋の中の部隊長達に目配せし、彼らを会議室の中に留めると、専任無線兵の伍長の方を向いた。
「大佐か?」
いつも彼に作戦行動のことで無線連絡を寄越してくるのはブイの直属の上官である「大佐」しかいない。今回もそうか、とブイ・バ・チェットは思ったが、無線兵は首を横に振った。
「いえ、ハノイからのようですが…。大使館だと言っております…。」
「大使館?」
一体、何の用件か想像もつかなかったが、会議室の中の部下達が見守る中、ブイは伍長に渡された無線機に出た。
「こちら、第一ニ七軽歩兵大隊指揮官のブイ・バ・チェットです。」
「どうも、上佐。あなたとお話できて光栄だ。」
こちらこそ光栄です、と返しながら、自分の階級を知っている男の声がアジア人のものではないことをブイは瞬時に悟った。
ロシア人…。KGBか…?
「私はツァギール・リヴィンスキー。大使館の…、そう特務執行官とでも申しましょうか。まぁ、そちらに送っている軍事顧問団の行動計画の考案などをしておるものです…。」
もちろん、ハノイの大使館に特務執行官などという役職がないことをブイは知っていた。
やはりKGBか…。
胸中でそう悟り、嫌な予感を感じながら、ブイは無線の相手に聞き返した。
「それで…。大使館の方が私どもに何の御用ですか…。」
意思を読み取らせない硬い声でそう言ったブイに、「そうですね、手短にお話していきましょう。」と答えた無線の向こうの男は続けた。
「つい数十分前、貴殿の基地から西に四十マイルの位置にある第十三物資集積所が何者かに襲撃された件は、もうご存知でしょう。」
ブイ達が今まさに救援の部隊を送ろうとしていた軍事顧問団基地のことだ。物資集積所というのは実情を覆い隠すための偽の名前で、実際には中国南部から国境を越えて持ち込まれた大量の武器に加え、民族戦線兵士達に特殊作戦の訓練を施すためのソ連人軍事顧問団が常駐していた。
何が言いたいのだ…?
そう思いながら、ブイは静かに無線から聞こえてくる男の話を聞き続けた。
「あそこには我々の同志…、いや多くのソ連人軍事顧問も駐屯しておりました…。」
「分かっています。だからこそ、救援の小隊を送りました。今からさらに追加の…。」
「いや、救援はしなくて良い…。彼らはすぐに君の下に引き戻してくれ。」
話題に沿わないくらい不自然にゆっくりと喋る特務執行官の男の声に返答したブイの言葉に、特務執行官の男は突然、早口で割り込むと、鋭い口調で言い切った。
「救援をしなくて良い…?なぜ…?」
無線の向こうの男の声が変わり、本題が男の口から語られるのを感じたブイが畳み掛けるように問うと、大使館の男は再びゆっくりとした柔らかい口調で話し始めた。
「たった数分前、ビントゥイ空軍基地より飛来したベトナム共和国空所属の戦闘攻撃機による爆撃で基地は完全に消滅しました。僅かに生き残っていた同志達の命もろとも…。」
「空爆…?まさか…!」
驚きから無線に聞き返しながら、ブイは部屋の中にいる部隊長の一人に目配せした。言葉はなくても、彼の意向を理解した部隊長は頷き返すと、会議室から飛び出し、派遣した先遣部隊の安否を確認しに行った。
「南にしては、余りにも良くできた作戦だ…。これが誰の仕業によるものか君には分かるね?」
話し続けていた無線の相手が黙り、ブイは溜め息とともに答えた。
「アメリカですか…。いや、しかし…。」
「そうだ、正式には撤退した。だが、あの国が表向きの約束を破るのは珍しいことじゃない。カンボジアへの国際法違反の越境作戦…。君もまだ覚えているだろう…?」
ブイの言葉を遮って話した特務執行官の男は、そのまま続けた。
「第十三物資集積所にはソ連が封印したある重要な技術に通じる科学者がその身を隠していた。」
「科学者…、ですか…。」
半ば独り言のように呟いたブイに、「ああ、とても重要な技術について、この地球上で唯一知る男だ…。」と落ち着いた声で男は答えた。
「その科学者の頭脳がアメリカに渡れば、世界の均衡は破壊され、君の祖国を襲ったこの二十年間の悲劇…、いや、もっと凄惨な出来事が世界中で起こることになる…。」
にわかには信じ難い話だったが、無線の向こうの男の声と口調には、話が真実であることを信じさせる不思議な響きがあった。
「それで…、我々は何を…?」
ブイが聞き返すと、無線の向こうの相手はいよいよ要求の本題に入った。
「我々の情報筋によると、基地を襲ったアメリカ兵の人数は十人弱。彼らはジャングルを基地から東に向けて突っ切って、国境方面へと向かっている。最終的にはトンレ・スレイポック川を国境地帯から上流に四十キロ遡ったところで、VNN(南ベトナム海軍)の哨戒艇に回収してもらうつもりのようだ。」
ブイは丁度先ほど部下の幹部達に救援策を指示する時に使った、指揮台の上の大地図に取りつくと、男の言う言葉に従って、アメリカ兵達の移動ルートを人差し指でなぞった。その指は微かに震えていた。
次に男から出る言葉は分かっている。その回収を妨害せよ、だ。だが、できるのか?奇襲とはいえ、たった十人足らずの人数で、三百人の兵士達が駐屯し、戦車に攻撃ヘリのような強力な戦力も備わった軍事顧問団基地を壊滅させた化け物どもを相手に…。
「君には、彼らの回収作戦を阻止してもらいたい。」
無線の男の想像通りの言葉に心臓が大きな鼓動を一つ打ち、ブイの胸の中に黒い闇が広がった。
私は…、どうすればよい…?
心中に溢れる不安を傍らの部下達に悟られないよう、地図の上の回収地点を見つめたブイは数秒の沈黙の後、ようやく胸の中の動揺を押さえて、口を開くことができた。
「ですが…。」
「分かっている。」
ブイの微かに震えた声に、無線の向こうの男が食いつくように返した。
「敵は手強い。君達だけでやれ、とは言わん。」
続けて、男は四つの地名をあげた。ブオンドン、クークイン、ラク、ザーギア…、どれも民族戦線の基地がある場所だ。
「そこの指揮官達に、一兵残らず君の下へ支援を出すように言ってある。」
「一兵残らず…、ということは、二個師団規模の兵力が…。」
各部隊の規模を頭の中で計算したブイは呻くように呟いた。第一次インドシナ戦争以来、多くの戦闘を経験してきた彼でも今まで動かしたことがないほどの大規模な部隊だった。
「南ベトナム中西部の戦力マップ上に、一時的に大きな穴が空くが、そうしてでも止めなければならない相手だ。」
もはや無線の向こうの声はブイの頭の中には入っていなかった。彼は、頭の中で幾通りもの可能性・戦闘シミュレーションを組み立てていた。
いくら強力な相手であっても、軍事顧問団基地での戦いで弾薬類は相当消費しているはず、網を張り、こちらから奇襲を仕掛ければ…、もしかすると二個師団規模の戦力があるならいけるかもしれない…。
答えが「イエス」しか許されないのは分かっているが、それでもブイは返事をするまでの数十秒間、様々なことを考えた。ここで自分が熟慮しなければ、現場で実際に敵と戦い、危険な目に合うのは末端の兵士達だ。彼らに勝算のない戦いはさせられない。
敵が通ると予測されているルートをもう一度、指でなぞり、迎撃に適した場所を探したブイは敵の回収地点からトンレ・スレイポック川を遡ること、一キロ手前の一点で指を止めた。
「了解しました。まず、私の手元にいる部隊を先行して、敵の予測回収ルートの一キロ手前で待機させます。」
迎撃の決意を固めたブイが無線の向こうの相手に計画の概略を告げると、特務執行官の男は満足したような声で
「健闘を祈っております…。それでは…。」
と言うと無線を切った。交信の途切れた無線機を傍らの無線兵に返したブイは、そのまま無線兵の伍長に指示を出した。
「先遣小隊並びに、現在出撃準備中の全部隊幹部に連絡。命令変更、全部隊は第十三物資集積所への救援を中止。指定の待ち伏せ地点にて、そこを通るであろうアメリカ人特殊部隊員達を迎撃せよ。それと…。」
指揮台の上の地図を見ながら、そこで一回考えこんだブイ上佐は溜め息をつくようにして追加の命令を伝えた。
「ベルを呼んでくれ。すぐに戻るように、最優先だ。」
これから始まるであろう、米軍撤退以来久しぶりの激しい戦闘の気配に、了解です、と声を裏返らせて、無線兵の伍長が作戦会議室を出ていった後、残された副官の潘頼道(ファン・ライ・ダオ)少尉が、指揮台にもたれ掛かって地図の上を睨んでいるブイに詰め寄った。
「上佐、本当にあの男を呼ぶのでありますか…?」
「ああ、この作戦には彼の力が必要だ。」
地図の上を見つめたまま答えたブイの言葉に、まだ二十代の若い副官のファン少尉は、
「しかし、やつは…。」
とあくまでも食い下がったが、ブイは指示を変えるつもりはなかった。
「彼は私達の危機を何度も救ってきた。私が今の階級にあるのも彼のお陰だ。」
そう言い切って、ファンの方を向いたブイは若き副官にも指示を出した。
「ファン少尉。君も準備のできた部隊を率いて、網を張る待ち伏せ部隊の現場指揮を取ってくれ。」
まだ何か物言い足りなさそうな顔をしていたファンだったが、上官の命令に抗うことはできず、「了解しました…。」と返すと、作戦会議室を出ていった。最後に一人、地下深くに掘られた会議室に残されたブイは指揮台の上の地図を睨んで、深い溜め息をついた。
戦争をするからには部下達が死にゆくことは覚悟しなければならない。だが、またしてもあの泥沼の戦闘が繰り広げられると考えると、ブイは全身の力が抜けて、その場に座り込んでしまいそうだった。今度は何人の人間の命が失われることになるのか…。
ブイ・バ・チェットが大使館の特務執行官を名乗る男から指令を与えられたちょうどその時、遠く離れたアメリカ・コロラド州 ウッディー・クリークでは、FBIも把握していない通信回線でモスクワと繋がった電話越しに、ファーディナンド・モージズがソ連の"友人"と会話していた。
「いやぁ…、わざわざ申し訳ありませんでした。レガソフ中将…。」
産業革命よりも古くから存在し、アメリカだけでなく、世界中にその影響力を及ぼす秘密結社"シンボル"において、首脳クラスの幹部の肩書が与えられているモージズが、これほど低姿勢で話しているのは、相手もまた"シンボル"の中で同じ首脳クラスの階級につく幹部だからだった。
「いえいえ…、先生には先の大戦の時にお世話になりましたから…。NLF(南ベトナム解放民族戦線)にはハノイのKGB工作員を通して、部隊をメイナードの部下達の進行方向に展開させるように命じました。」
八,八〇〇キロ以上離れていても、最新技術を用いた長距離電話から聞こえてくるソ連の"友人"の声は明瞭だった。モージズは最初の世界大戦の時から生きている最後の友人の声を聞きながら、通信機のある別荘の小部屋の窓から雪の積もった遠方の山々を見つめていた。
「しかし、良かったのでしょうか?」
もう直では何年も会っていない友人の声が尋ねてきた。
「"あの技術"のことですか?」
「ええ…。」
モージズは小窓から狭く暗い室内に顔を向けると、一つ溜め息をついて答えた。
「出来れば、手に入れたかったが…。」
電話の向こうからも"友人"の溜め息が聞こえ、それに続いて、
「メイナードがまさか我々を裏切るとは…。あれほど手塩にかけてやったのに…。」
と失望した声が聞こえてきた。だが、モージズにはメイナードの裏切りを一方的に責めることはできない想いもあった。
「長く忘れていたが…、思えば、彼の人生を根本から狂わしたのは私達だったのだ。だから、彼が…、彼が私達に復讐するのは最初から決められていたことだったのかもしれない…。」
そう言うとモージズは再び、小窓の外の光景に視線をやり、初めて出会った頃の十五歳のメイナードの姿をそこに思い浮かべて呟いた。
「彼もかつて我々が推し進めたマンハッタン計画の被害者なのだからな…。」