第一章 十八話 「旅立」
文字数 5,915文字
丸太に腰かけたイーノックは小石を目の前の湖に投げながら、そう言った。遠くで鳥の鳴く声が微かに聞こえる以外、風の音しか聞こえない湖畔に、小石が水面をはねた音が響く。
夜が明けて午前七時、モーテルを後にしたウィリアム達はクレイグの家に行く前に昨夜、オーロラが出ていた場所を探して、この湖に辿り着いたのだった。向こう岸までは八百メートルほどありそうな湖の回りにはウィリアムとイーノックの二人以外に人の姿はおろか動物の影すら見えない。見えるのは岸から離れた水面の上に静かに止まって浮いている水鳥だけだ。その湖の向こう側にはイエローナイフの高山がそびえ、白い雪を被った山頂の上には雪と同じ白色の雲を浮かべた青空が広がり、湖面にその姿を投影させていた。
そんな静寂に包まれた湖畔を前に、水辺の岩の上に腰かけたウィリアムは丸太に座って小石を投げるイーノックの後ろ姿とその向こうに広がる景色をぼんやりと眺めていた。
「もし、夜見れたらすごかったんだろうな…。」
そう言いながら、再び小石を湖の上に放り投げたイーノックは、その石が水中に引き込まれて、水面に波紋を広げたと同時に、まるで何かを思い出したかのようにウィリアムの方を振り向いた。
「あっ、そういえば、ベトナムではオーロラって見えるんですか?」
とぼけたような質問を真面目な顔で聞いてくる部下に、ふざけているのか真面目なのかどちらか分からなかったウィリアムは苦笑しながら答えた。
「いや、亜熱帯でオーロラは見えないだろう。」
「ああ…。まあ、それはそうか…。」
どうやら本気で聞いてきていたようだった。狙撃においては抜け目のない彼だが、どうやら日常生活ではうっかりしているところが多いのだな、ということをウィリアムはここ数日、イーノックとともに過ごして理解するようになっていた。だが、だからこそ、何のトラウマもまだ抱えていないイーノックの人間らしいところをウィリアムは好いていた。ウィリアムは笑顔で返した。
「まぁ、でも虹は大きいのが見えたよ。」
「虹か…。」
呟いたイーノックは再び湖の方を見た。兄さんも見たのかな…、と小さく呟いたのも、ウィリアムは聞き逃さなかった。二人の間に静寂がしばらく流れた。ウィリアムはイーノックの後ろ姿を見つめた。彼はまだ戦場の汚れは知らない。だが、その後ろ姿は、とても侘しく見えた。
「初めて会った時…、どうして、君は我々の部隊に来ることをすぐに決めたんだ?」
ウィリアムが問うと、イーノックは驚いたように振り返った。
「何故…、いまそれを聞くのです?」
真剣な眼差しを向ける部下に、頭をかきながらウィリアムは微笑を返した。
「いや、大雑把な説明とはいえ、任務の内容は聞いたはずだ。危険は多いし、安全は保証できない。君はまだ軍に入って一年くらいしか経っていないだろう?それなのに、何故あれほどすぐに決断できたのか気になってな…。」
上官の疑問にイーノックは目を俯けながら答えた。
「知りたいんです…。」
答えの内容を何となくは予想できていたが、「何を?」とウィリアムは更に問うた。
「大尉は私の経歴をすべて見たはずです。家族構成まで含めて…。」
ウィリアムの顔を見返したイーノックは、さらに続けた。
「兄は…、ヴェスパ・アルバーンはあの戦争に行って変わってしまいました。」
イーノックは再び湖の方を向くと、その遠くの方、静かな湖面を見つめながら、戦争から帰ってきたばかりの頃の兄を思い浮かべた。何かを伝えたい…、だが、伝えようとしても、誰にも理解してもらえず、その何かを心の奥底にしまいこもうとしていた兄の横顔が彼の脳裏に浮かんでいた。
「知りたいんです…。ベトナムの戦地が兄に何を見せたのか…。」
湖の中ほどで数羽の水鳥が一斉に飛び立った。静かな湖畔の水面に波紋が広がる。
「帰国した兄は何かを伝えたがっていました。それを一番身近で感じて聞いてやりたかったけどできなかった。まだ、十四歳だった自分には彼が戦争で見たものや胸の中で感じていた孤独など理解できるはずもありませんでしたし、心のどこかでそれを理解することを怖がっていたような気もします…。」
水鳥が飛び立って、向こう岸まで何もいなくなった湖を見つめながら、イーノックが静かに続ける。
「兄はそれを知って、親父にも母親にも、俺にも迷惑をかけないように胸の内を明かそうとはしませんでした…。」
再びウィリアムの方を向いたイーノックの頬には涙が流れていた。
「大尉…、何故、彼の遺書が見つからなかったか分かりますか…?」
震える声で問うた若者の言葉に、ウィリアムは無言で首をふった。イーノックは涙を腕で拭いながら、その理由を明かした。
「親父の書斎で三十八口径ピストルを使って、頭を撃ち抜いて死んでる兄を最初に見つけたのは俺です…。俺が彼の遺書を燃やしたんです…。誰にもばれない様に家から離れた草村の中で中身を見ないまま、焼きました…。」
遺書は見つからなかったそうだ…。メイナードの言葉がウィリアムの脳裏によみがえった。恐らくはかつての自分の過ちを初めて告白する青年にウィリアムは言葉をかけることができなかった。
「怖かったんだ!それを見れば何を知ることになるのか、そして兄を無視し続けた自分達がどれほど残酷なことをしたのか思い知ることを…!」
嗚咽に近い叫びとともに感情を放出させた青年にウィリアムは手拭いを手渡すと、彼が溢れ出た鼻汁と涙を拭き終わって心を落ち着かせ、その先を語るのを静かに待った。時の止まったような静寂が包み込む湖畔で、青年の嗚咽だけが聞こえていた。
「兄が死んだ後、父親も母親も俺も皆、兄の自殺のことを忘れて生きていこうとしました。俺もハイスクールを出た後は大学に行って…。弟の俺に進学の道を残すために兄は兵役に行ったんですから…。」
涙を流し、すっかり目元と鼻の回りが赤くなったイーノックがウィリアムの顔を見上げる。
「でも、俺は兄のことを見捨てた自責から逃げ切ることはできませんでした。そして、彼の後を追って軍に入り、より兄の影に近づけるレンジャーに志願したんです…。」
ウィリアムはイーノックの顔を見返したまま、その後に続くであろう言葉を声に出した。
「それで、君はお兄さんのことを知りたくて、我々とともに任務につくことを決めたのか…。」
泣き顔に微笑を浮かべたイーノックが頷く。
「本当に勝手ですよね…。自分から放り出して逃げたのに…。答えは聞こうと思えば、いつでも…、いつでも聞いてあげられたのに…。」
湖の水面に、また一羽の水鳥が戻ってきた。静かに着水したその周囲に小さな波紋が広がる。
「人は往々にして自らの過ちを前もって避けることはできない…。君だけが責任を感じる必要はない問題だ…。」
かける言葉を見つけることができなかったウィリアムは、そんな表面的な言葉しか言うことはできなかったが、それはヴェスパ・アルバーンのことが彼の家族の間にしか立ち入ってはならない問題であるような気がしたが故の配慮でもあった。
「あの…。自分の気のせいかもしれないので、こんなことを聞くのは大変失礼なのかもしれませんが…。」
震える声を出しながら、こちらを見上げたイーノックの顔を見返したウィリアムは「何だ?」と促した。イーノックは息を飲んで呼吸を整えてから続けた。
「その…、大尉は私の兄と会ったことがあるのではないですか?」
一瞬、ドキリとした胸の内を隠しつつ、湖の遠くを見つめたまま、ウィリアムは無表情を貫いて、「何故だ…?」と聞いた。表情は無表情だったが、固くなった口調に自分の推察を確信したイーノックは震える声で続けた。
「いえ…、最初に私と出会ったときの大尉の目が…、その何て言うか、まるで…。」
「会ったよ…。」
自分の声に重ねるように途中ではっきりと言いきった上官の顔をイーノックはハッとして見上げた。
「ずっと一緒だった…。」
湖の向こう岸を見つめたまま、呟くようにウィリアムは言った。山の間から湖に吹き下ろした冷たい風が二人の間を吹き、暫しの沈黙が流れた。その沈黙の後、先に口を開いたのはイーノックの方だった。
「あっ、兄を追い詰めたのは一体、何だったんでしょうか…。」
こちらの目を奥底まで見つめてくるような部下の真剣な表情に「それは…。」と返答につまったウィリアムは部下の顔から目を逸らし、湖の向こう岸を見つめながら、その答えを頭の中で探ったが、その答えは彼自身がまだ解を見つけられていないチューチリンの村での出来事の答えと同じだった。
「それは…、すまない。私にも分からないんだ…。だが、一つ言えることはある。」
再び、部下の顔を見つめ返したウィリアムは続けた。
「人は皆、自分のしていることを正しいと思いたがる。いや、そう思わないと生きていけないんだ。でも、戦場に正義など無い。どんな言い訳をしても人殺しに正義はないんだ…。」
人が人として生きるために、人殺しは認められないものだ。だが、人類と切り離せない争いの歴史の中で多くの殺人が是認され、勇敢な行為とされてきた。なぜ、戦場だけが…、戦争だけが…、人殺しに正義を認めるのか…。
「繰り返される戦争で毎度、正義が唱えられるのは…。」
「それを唱える政治家や指揮官達が自分で手を下すことはないからだ…。」
背後から聞こえてきた声にウィリアムとイーノックは同時に振り返った。初めて会った時と同じように、二人の気づかない間にクレイグがすぐ後ろに立っていた。彼は湖の向こうの山々を見つめながら続けた。
「戦場に正義などない。だから、兵士が任務を遂行できるように彼らには狂気が与えられる。だが、それで彼らの良心が消えるわけではない。狂気と罪悪感は兵士の心を蝕む…。そして、いつの時代も兵士達は壊れていくんだ…。」
ウィリアムの前をゆっくりと横切ったクレイグはイーノックのすぐ隣まで歩み寄った。
「君がそれを言葉で聞いても納得できず、お兄さんの見たものを実際に自分の目で見てみたいのなら、向こうに行くのも良いだろう。」
イーノックがその顔を見上げても、クレイグの視線は湖の向こうを見つめたままだった。
「だが、君みたいな若者が戦場で壊れるのを放っておくことはできん…。私も行く…。」
クレイグの話に集中していなかった訳ではない。むしろ聞き入っていたからこそ、クレイグの口から突然出た言葉が信じられず、一瞬の沈黙の後、ウィリアムは驚きの声をあげた。
「来てくれるのか…?私達と…!」
ウィリアムの方に振り返ったクレイグはゆっくりと口を開いた。
「条件が二つある。」
自分のいない間、娘の安全を保証すること、そして、もし自分が帰らなかった時には娘が成人するまで合衆国政府が彼女の後見人になること…。
その二つがクレイグの提示してきた条件だった。
「あんたたちのためじゃない。あの子の人生のために…。そして、俺が今までの人生と決別するために決めたことだ。」
クレイグの後に続き、獣道を歩いて彼の家まで行くと家の前に、あのCIAの男が立っていた。他にも男が二人、庭でレジーナの遊び相手をしている女が一人いる。服装からは一般人のように見えるが、彼らもCIAの人間であることは疑いようがなかった。
「真夜中に奴から連絡があったんだ。あんたらには、まぁ、サプライズみたいな感じでな。すぐには言わなかったんだが…。」
ウィリアムとイーノックに歩み寄ってきたCIAの男が満面の笑みで話す。
「いやぁ、あんたら、すごいよ。よく、あいつを説得できたもんだぁ。」
男が笑顔で二人に話しかけている間に、家の中に入っていたクレイグは、まとめていた荷物を両手に持って出てきた。どうやら、昨日の夜には決意して、準備していたようだ。
女と遊んでいたレジーナは家から出てきた父親の姿を見つけると、普段と違う気配を察したのか、彼の元に駆け寄ってきて抱きついた。
「お父さんはすぐ帰ってくるから…。それまで、このおじさん達の言うことを聞くんだよ。」
レジーナの頭を撫で、静かにそう言ったクレイグはCIAの男の方を向いて、「頼んだぞ。」と言うと、ウィリアム達の後に続いて再び歩きだした。その後を追おうとするレジーナの肩をCIAの男が優しく引き留める。
「大丈夫だ。お父さんには、またすぐ会える。」
CIAの男は優しい口調でそう言ったが、瞳に涙を浮かべた少女は、その手を振りほどくと、家の中に走っていってしまった。少女の背中を見送ったCIAの男はウィリアムの方を向いて呼び止めた。
「大佐よりの連絡だ。至急、フォートブラッグ基地に戻れ、ということだ。飛行機の手配はしてる。飛行場までは代理のドライバーが連れていってくれる。」
至急、戻れ…。何か嫌な予感がしたがウィリアムは了解と謝辞の代わりに頷くと、クレイグの家を後にした。
代理のドライバーの車は、あのCIAの男が乗っていた小型車よりも一回り大きなSUVだった。
「帰りは飛行機で帰れますね。」
広々とした車内に一番に飛び込み、嬉しそうな声を出すイーノック、その傍らでクレイグは後ろを振り返り、もう戻れはしない道を悲哀に満ちた目で見つめていた。
「本当に良かったのか?」
その姿を見て、先にSUVに乗り込んでいたウィリアムが聞くと、我に返ったクレイグは、「いや、大丈夫だ。」と言って車内に乗り込んだ。
「出してくれ。」
代理のドライバーは、あのCIAの男以上に無言だった。基地に帰らなければならない理由を考えるウィリアム、湖での会話を思い出して、兄の心を壊した狂気を想像するイーノック、自分の決断が本当に正しかったのか、まだ確信がもてないクレイグ、誰も喋らないSUVの車内でエンジンの音と砂利道をタイヤの踏む音だけが響いていた。
クレイグの家から一時間弱ほど、車で揺られたところでCIAの男が言っていた"飛行場"にたどり着いた。そこは障害となる木々の無い荒野の不整地を整備して、即席の滑走路とした場所だった。その滑走路の一端ではCIAが所持する小型機が三人を待って駐機していた。クレイグの荷物を分担して、機内に持ち運んだイーノックは彼の想像していた飛行機とは違ったが、それでも他の客に気を使わずに済むこの状況に満足しているようだった。
三人が乗り込むと、すぐに離陸の助走を始めた小型機の中でクレイグは小窓から見えるイエローナイフの山々を見つめていた。彼がカナダを出るのは実に七年ぶりのことだった。不安がないわけではないだろう…。
そんなクレイグの様子を視界の端に見ながら、ウィリアムも帰還を早めねばならなくなった理由を想像して、不安を感じずにはいられなかった。