第3章 恐怖 – 老婆  

文字数 943文字

                老婆  


 それから何事もなく、時が過ぎ、武井は薫との出来事を、

 ここ2週間、思い出すことなく過ごしていた。

 それというのも、会社の業績が甚だしく順調で、

 海外展開への準備にも大忙しだったからだ。

 そのせいで武井は日々多忙であり、彼なりに充実した日々を過ごしていた。

 以前のように、女性と会うこともなく仕事漬けの毎日だったが、

 そんな生活こそが、彼本来の生き方でもあったのだ。

 ただそれは控えめにも規則正しいものではなく、

 体重は減るどころか、さらに増加する気配すらあった。
 
 だから彼は再び、トレーニングジムに通い始める。

 飯倉薫との一件があって、
 
 己の体力の衰えを痛感したというのも一因だった。

 そして彼はトレーニングのある日は仕事を早めに切り上げ、

 車ではなくウオーキングしながらジムへと向かうようになる。

 その日も、スポーツバッグを手にして、
 
 ジムのあるビルの前まで来た時のこと。

「ちょっと、そこのあなた! 」

 どこからかそんな声がする。

「ちょっとあなた! そのままじゃいけんでしょ! 」

 続けざまの声に武井が目を向けると、

 少し離れたところにいる老婆と目が合った。

 かなり小柄に見える老婆は、武井の視線に気が付いて、

 歳の割にしっかり化粧をした顔でニンマリと笑い返す。

 〝そのままじゃいけんでしょう〟 

 彼はそんな言葉通りに、目の前にある自動ドアへと己の姿を映し見た。

 しかしおかしいところなどどこにもないのだ。

 まさか背中が? 

 一瞬そんなことを思うが、

 何かあるんであれば、会社でとっくに指摘されているはずだった。

 ――いけん? どこがいけんだって!?

 武井は再びチラッとだけ振り返り、そんな思いをその顔へと込めた。

 どうせ頭のおかしい老婆に違いない――勝手にそう決めつけて、

 老婆を無視してそのままビルの中へと入っていった。

 きっと今頃、また別の誰かをつかまえて、

 似たような言葉を投げ掛けているんだろう。

 武井はトレーニングウエアに着替えながら、

 1人そんなことを思って笑っていた。
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