第2章 罠 - 山瀬美咲(2) 

文字数 1,831文字

             山瀬美咲(2)


「信さん! いったいどうしたのよ! 」

 いきなりそんな声が響き渡り、驚いて目を向ける病室の入り口に、

 充分に見知った女が立っていた。

 女は武井を睨み付けるようにしながら、

 目から涙をポロポロと流している。 

 彼は開け放たれた扉を閉めるように言って、

 立ち尽くす女の姿を上から下まで眺めていった。

 普通、どんな水商売の女であろうと、

 見舞いの時くらいは多少大人しめの格好をするものだろう。

 ところが女は大きく開いた胸元から、

 豊満な乳房をこぼれ落ちんばかりに見せつけている。

 ちょっと屈みさえすれば、

 きっと申し訳程度に張り付いている下着が、

 しっかり覗き見える超ミニ丈のワンピース姿なのだ。

 彼女の名は山瀬美咲といい、数ヶ月前、クラブで知り合ったばかりの女。

 普段クラブでも抜きん出て肌の露出が多く、

 武井は働き始めたばかりだと言う美咲のことを、

 ――セックス以外、なんの取り柄もなさそうなやつだな……。

 そう思うまま、出会ったその日にホテルへと誘った。

 やはり想像していた以上に美咲のセックスは素晴しく、

 それからというもの、武井は彼女をたびたび指名するようになる。

 はじめは単に美咲の身体だけが目当てで、

 約束さえ取り付ければ、後はさっさと別の店に行くことだってあった。

 ところが武井のあからさまな態度にも、美咲は感じているのかいないのか、

「やっぱり武井さんって頭がいいのね、そうよね、T大出てんだもん。それで
 大会社の社長さんだなんて……わたしなんかにはもう雲の上の存在だ
 わ……」

 彼が何かちょっとでもうんちくを述べると、

 美咲はそういった感じのことをよく口にした。

 最初はそんなところも胡散臭く、

 どうせ金目当てのおべっかだろうと訝り、
 
 ずいぶん冷たい態度を取ったのだ。
 
 ところが知り合ってひと月も過ぎると、

 美咲との時間がどんどん心地よくなっていく。

 ――こいつ、本当の馬鹿なのか!?
 
 ついそんなことを思ってしまうほど、

 彼女は武井のツレナイ態度にも動じない。

 そして先月、事故に遭う直前のこと、

 武井はとうとう美咲にマンションを貸し与えた。

「東京に戻って三日経っても、信さんお店に来てくれないから、心配で会社の
 方に電話しちゃったの……、そうしたら、交通事故で入院してるって聞い
 て……」

 そう言って再び泣きそうになる美咲は、

 先週まで生まれ故郷に帰っていて東京にはいなかった。

 函館で暮らす母親が入院したと聞き、

 武井は帰郷に掛かる旅費すべてと、結構な見舞金を美咲に渡していた。

 そんな母親もなんとか退院し、

 久しぶりに東京に舞い戻って初めて、美咲は武井の事故のことを知る。

 そうして慌てて病院へとやって来て、

 彼女はその日以降、数日と空けずに病室に顔を出すようになった。

 さらに美咲は現れるとなると、面会の開始時間から姿を見せ、

 店へ向かう時間ギリギリまで武井のそばを離れようとしないのだ。

 初日こそ露出の多かった服装も、日が経つにつれ少しずつ大人しくなり、

 気が付けばその顔もかなりの薄化粧になっている。

 もともと美人だぐらいには思っていたが、

 武井はそんな姿を前にして初めて、美咲のことを心から美しいと感じた。

 本来なら寝ている時間に起き出し、睡眠不足を押してやって来ている。
 
 何より美咲は、武井が話すことを心から楽しそうに聞いてくれた。

 ――店にいる時と全然違う! こいつは……決して馬鹿なんかじゃない!

 ただ相槌を返し感嘆の声を上げる、それが店での美咲だった。

 ところが病院にいる時の彼女は、

 話題に合わせてそれなりの応えをきちんと返してくる。

 それでいて、小難しく話しがちな武井のように、

 ひけらかすようなところなどがまるでなかった。

 きっと店では、敢えて本当の自分を見せないようにしていたのだろう。

 確固たる地位を築く前に、

 どんな理由にせよ周りから浮き上がってしまえば、

 夜の世界では上を目指すことが難しくなる。

 とにかく、

 武井はこんな美咲との時間に、

 ついには心の安らぎを感じるようになっていた。
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