第2章 罠 - 憎悪(3) 

文字数 1,151文字

                 憎悪(3) 


 どこかに連れて行ってくれるわけでは決してない。

 ただいつも優しく、夢のような将来の話を楽しそうに語る父と、

 彼はいつも一緒にいたかった。

 ところがそんな楽しいひと時を、

 その頃の母親は、彼からことごとく取り上げようとした。

 小学校に上がった頃から、母親はいつも不機嫌で、

 父にばかり懐く幼い彼を疎んじていたのだろうか……

 父のいる時に限って用を言付け、勉強するよう声高に叱りつけた。

 それで彼が不満を口にすると、悪ければ平手打ちが飛んでくる。

 さらにそんな時、父が非難めいたことを言おうものなら、

 母親は半狂乱になって怒り狂った。

「死ねば……よかったんだ……」
 
 飲むことのできないワインボトルを手にしたまま、

 武井はキッチンに座り込み、ふと、そう呟いた。

 そんな呟きは、つい先日夢に見た......昭和57年当時の出来事を、

 再び彼の脳裏に浮かび上がらせる。

 彼は中学に上がったばかり。

 小さなアパートに引っ越してひと月ほどが経った頃、

 母親がパートから戻るはずの時間は、とうに過ぎていたのだ。

 そんな時、彼は警察からの電話で、母親が見知らぬ男と共に、

 近所の安宿で瀕死の状態のまま発見されたと聞かされる。

 それだけ耳にしたところで受話器を放り出し、

 彼は慌てて母親が収容されたという病院へと向かった。

 案内された地下にある霊安室で、信の目に映り込んだものは母親ではなく、

 確かにごつごつした男性の足先だった。

 そして、信が安堵の吐息を漏らすと同時に、背後から彼を呼ぶ声がする。

「信、そこじゃない。お母さんは助かって、今3階で治療を受けているそう
 だ……」

 驚いて振り返ると、
 きっと慌ててタクシーに乗りやって来たのだろう。
 
 疲れ切った顔をした祖父が、消え去っていた看護師と並び立っている。

 だから彼は結局、白いシーツに覆われていた顔を見てはいない。

 事件後に知ったことだが、彼の母親は長い間、

 祖父母の財産を消し去った張本人と、不倫の関係にあったらしい。

 それが父親との離婚より前なのか後なのか、

 それは今だに分からないのだが、

 とにかく、母親と一緒に担ぎ込まれた男の顔を見ることなく、

 彼は霊安室を出ていたのだった。

 そうして、無理矢理心中を迫った......と、彼は祖父から聞かされるが、

 本当のところは分からない......男は死んで、母親は幸いにも助かった。

 ――死ねば……良かったんだ……。

 彼はその日以来、

 心の奥底にそんな思いを抱き続けて今日までを……生きてきた。
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