第5章 迷路 - どん底(2) 

文字数 907文字

                どん底(2)


 ――誰か、気付いているだろうか?  

 そんな思いに、客の一人一人に目を向けていく。

 しかし誰1人気が付いた様子はなく、

 加えて言うなら、誰もテレビなどに注意を向けていなかった。

 が、ほっとしたのもつかの間、すぐに目の前の現実が思い出される。

 自分は殺人容疑で、全国に指名手配されたのだ。

 だから運良くここを逃げ果せたとしても、

 いずれは捕まってしまうに違いない。

 そう思えば思うほど、今後についての思案など糞食らえ! 

 とりあえずこの一時、飲んですべてを忘れ去りたいと強く思った。

 彼はたて続けにビールを飲み干し、続けて山崎のロックをダブルで頼んだ。

 すると酔いの回り始めた武井へと、ママが久しぶりに声を掛けてくる。

「お客さん、今晩泊まるところがないんだって? さっきおまわりさんから
 電話があってね……」
 
 それなら、夜明けまで飲み明かそうと、

「もう店閉めちゃうからさ、パーッと行こ! 」

 そう言って彼女は、空き掛けていた武井のグラスへウイスキーを注いだ。

「わたしは麻衣って言います。お客さんは? 」

「……飯田、飯田信二……」

 顔を寄せ笑顔を見せるママへ、彼は思わず父親の名を騙っていた。

 既に店には武井しかおらず、2人はそれから不思議なくらいに盛り上がる。

 武井が若い頃好んで聴いていた音楽を、
 
 麻衣も同じように大好きだと言った。

 気に入っている本や映画など、

 武井自身そう多くを知っているわけではなかったが、

 ことごとくその趣味嗜好が近しいのだ。

 気が付くと武井は「麻衣ちゃん、麻衣ちゃん」と呼びかけ、

 昔懐かしい友人であるかのような親しみを見せる。

 そしてあっという間に、たいそう酔っぱらってしまうのだった。

「ねえ、なんだったら上のベッドで寝たら? どうせうちの人は帰ってきやし
 ないんだから……」
 
 辛うじて目を開けている武井へ、麻衣がそんなことを言ってくる。

 それから5分もしないうちに、

 武井は彼女によって衣服を脱がされ、ダブルベッドに押し倒された。

 そして、まさに麻衣の指先が彼のブリーフに掛かろうとした時、

 突然、ドスの利いた男の声が響き渡った。
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