第1章 武井信 - 悪夢

文字数 2,911文字

               悪夢 


「うわっ!」

 それは......まさしく、恐怖に慄く声だった。

 既に夜も明けかけている頃、武井は己の叫び声と共に飛び起きる。

 そして、夢……? 

 彼は寝室のベッドにいる自分を知り、すぐさま、

 そんな事実を悟った。

 ――くそっ……またか……。
 
 何度となく見るその夢は、30年以上も前の出来事に基づいてはいる。
 
 しかしいつも決定的なところが、記憶にある事実とまるで違っていた。
 
 昭和57年当時、

 武井信は両親の離婚後、母親の実家に身を寄せ暮らしていた。
 
 母親は九州の名家のひとり娘で、両親は彼女の結婚を機に、

 所有していた土地建物すべてを売り払い、

 東京の高級住宅地にそこそこ立派な家を建て暮らし始める。

 武井信が中学校に入学して間もない、ある日のことだ。

 学校の帰り道、かなり先に見える我が家を眺めると、

 門の外にたくさんの人だかりが見えた。

 何事かと駆け寄ってみれば、近所の見知った顔が門から中を覗き込み、

 何やらひそひそ話をしている。
 
 そして信の姿に気が付いて、そそくさと後ずさりを見せるのだった。

 そんな見知った顔に見守られ、彼は家の中に入っていく。

 すると部屋という部屋に見知らぬ男たちがいて、

 家の物を次々と手に取り、1つ1つメモを取っている。

 リビングでは泣き崩れる祖母を母親が抱きしめ、

 その横で祖父が呆然と立ち尽くしていた。

 彼には最後まで、この時の詳しいことは語られなかったが、

 祖父が保証人になっていた男が、

 借金の大半を残し雲隠れしてしまったらしい。

 そんなことを信が知るのも、さして親しくもない友人からの、

 まさに心ない言葉からだった。

 それから、武井一家は近くのアパートに引っ越し、

 その後1年と経たぬうちに祖父母も相次いで亡くなった。

 彼の通う私立中学には裕福な家庭の子が多く、

 元来社交的とは程遠かった信は、

 それを機に殊更自分の殻に閉じこもるようになる。

 さらにその頃、数人の不良たちから、
 執拗な虐めを受けるようにもなっていた。

 〝貧乏くせえ〟などと囃し立てられるくらいならまだマシで、

 服を無理矢理脱がされ、校庭に放り出されるなんてことはザラ。

 けれど彼はほんの少しの抵抗を見せるだけ……

 黙ったまま、声さえ出さないのだ。
 
 そんなところが、初めはよけい不良たちの癇に障った。

 ところが何をされようが歯を食いしばり、

 ずっと耐えるだけの彼に不良たちも次第に興味を失っていく。

 そうして1学期も終わりに近付く頃には、

 誰からも虐められることがなくなると同時に、

 話し掛けて来る相手さえ、彼にはいなくなっていた。

 そんな状態だった頃、

 まだ祖父母が健在だった夏のある日、事件は起こった。

 その日に限って、母親がパートからなかなか戻って来なかった。
 
 だから仕方なく、信が祖父母と夕食を食べ始めようとしたその時、

 めったに掛かって来ることのない電話が鳴った。

 彼はあっという間に駆け寄って、受話器を手に取り耳へと当てる。

 もしその時、電話に出たのが信でなければ、

 それほどの辛い記憶を背負わずに済んでいただろう。
 
 けれど彼は、受話器をその手に取ってしまった。
 
 不思議なほど呆気なく、父親の不在を伝える13歳の少年に向かって、

 相手は大凡の顛末を話し聞かせてしまうのだった。

「嘘だ! そんな話、絶対に嘘だ! 」

 信は思わず大声を上げ、受話器をその場に放り投げる。
 
 そして、祖父母へ何も告げぬままアパートを飛び出し、

 耳にしたばかりの病院目指して駆け出した。

そこはアパートから程近い国立病院で、

 彼は到着するなり、地下へ案内される。  

 妙に薄暗い通路の先を、青白い顔をした看護師について足早に歩いた。

 途中ふと、何か目の前を横切った気がして、

 彼は思わず立ち止まり、ゆっくり左右を見回した。

 ――何も……いるはずない……。

 何を怖がっているんだと、彼は再び歩き出そうとする。

 ところが不思議なことに、

 さっきまですぐ前にいた看護師の姿が消えていた。

 看護婦さん……――そう声にしようとした時、数メートル先にある扉が、

 ほんの少しだけ開いているのに気が付いた。

 咄嗟に彼は、看護師がその中に入ったのだろうと思い、

 一目散に扉の中へと滑り込む。

 そこはあまりに殺風景過ぎる空間だった。

 看護師の姿もなく、ひんやりとした部屋の一番奥に、

 真っ白なシーツで覆われた簡易ベッドが、ポツンと置かれているだけ。

 母さんが、そんなことするわけがない! 

 ずっとそう思い続けてきた彼にも、

 そこで初めて、微かな疑念が浮かび上がった。

 後はもう自分の目で確認するしかないのだ。

 13歳の武井信はゆっくりとそれに近付き、

 震える手で白いシーツを捲り上げていった。

「ふう……」

 吐き出した息と共に、安堵の声が微かに漏れ出る。

 そこにあったものは、明らかに男性だと思える真っ白な足先。

 恐ろしかった。

 心の底から恐怖にすくみ上がっていたが、

 万が一電話で語られたことが真実であるなら、

 信はそこにある男の顔を、どうしても見てみたいと思っていた。

 彼は震えるままに深呼吸をし、ゆっくりベッドの反対側へ回り込む。

 そして頭部らしき膨らみの端っこに指を添え、

 シーツを少しずつ捲り上げていった。

 その時、不思議なくらい自然に、現れるだろう顔の想像が思い浮かんだ。

 ああ、きっとこんな顔が現れるんだ……と、そんなふうに思ったのだ。

 ところが、実際はまるで違っていた。

 愕然とする信の眼前に、真っ赤な眼球が飛び出し、

 穴という穴から血を吹き出している母親の顔が現れ出る。

――違う! そんなはずはない! 
  
――間違いなく、あの男の顔だったんだ!

「うわっ!」

 そこで思わず大声を出して飛び起きる。

 そして彼はすぐ、夢を見ていたという事実にも気が付いたのだ。

 実際、彼はあの晩、シーツを捲ってなどいなかった。

 にも拘らず、しっかりと目が覚めた今でも、

 血だらけとなった母親の顔を、鮮明に思い出せる。

 ――馬鹿なことを……お袋は今でも、ちゃんと生きてるじゃないか!?

 そんなことをいくら思おうとも、

 その顔は忘れた頃、決まって夢となり現れ出るのだった。

 彼はそのままベッドから降り立ち、

 明るくなり始めている窓の景色へと目を向けた。

 きっともう寝付けないに違いない。

 そう思い、武井は寝室から静かに出て行こうとする。

 そんな彼の後ろ姿を、

 優子が少し離れたベッドから、

 無表情な顔を向けじっと見つめているのであった。
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