第3章 恐怖 – 脱出

文字数 907文字

                   脱出



「父さん……」

 武井信は夢の中で、久しぶりにそう呟いた。

 夢での彼はまだ小学校の5年生で、

 母親に連れられ、小さなアパートの前に立っていた。

 それは見るからに古ぼけた建物で、母親に促され入った部屋は、

 足の踏み場もないほどに散らかった空間。

 ミニコンロが置けるだけのキッチンと、6畳1間というこの場所で、

 彼の父親は離婚後ずっと暮らしていた。

 そしてつい数日前、口癖のように言っていた成功を手に入れることなく、

 この部屋で人知れず亡くなったのだという。

「さ、入れられるものはどんどん入れるのよ」

 そう言って渡されたビニール袋へ、

 信は畳の上に残されたものを次々に放り込んでいった。

 時折そんなものの中から、彼の記憶に残されているものが見つかる。

 入り婿だった父は、何よりも金色の懐中時計を大事にしていた。

 そんなものが今や錆び付いたように変色し、彼の足元に転がっている。

 その傍らには、やはり信の記憶にある1枚の白黒写真。

 それはまだ家族だった頃の思い出の品であり、

 父と母との間には、まだ小さかった頃の自分がいる。

 確かこれが最後の家族旅行で、たった1泊だけの本当に質素な旅だった。

 ――父さん、さようなら……。  

 ふと心だけでそう思うと、彼は写真をポケットへしまい込み、

 再び忙しなくその手を動かし始めた。

 するとそんな作業は、思いの外あっという間に片が付く。

 散らかり放題ではあったが、

 所詮ゴミのようなものしか残されていなかった。

 信は帰りの電車の中で、夕陽を見つめて思ったのだ。

 ポケットに忍ばせた写真に自分の手を重ね、

 ――僕、絶対に金持ちになって……父さんにおっきなお墓を建てるからね。

 頭脳明晰ではあったが、世渡りは最高にへたくそだった父親に、

 彼はそんなことを心に誓う。 

 父親が死んだと聞かされ、

 遺骨が部屋の片隅に放り置かれる……その時信の脳裏には、

 そんな悲しい記憶が走馬灯のように蘇っては消えていった。
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