第5章 迷路 -  絆(3)

文字数 1,322文字

                  絆(3)


 すると、飲み掛けのジョッキがすぐ目の前にあって、

 ――俺は今、本当に叫んだのか? 

 と、そんなことを密かに思う。

 武井は両腕を枕代わりにして、

 知らぬ間にカウンターに突っ伏し寝てしまっていた。

 それからゆっくりと顔を上げ、辺りをそっと見回すと、

 さっき見た惨状が嘘のように消え失せ、

 他の客が、彼のことを何事かと見つめているのだ。

 だから武井は頭を少しだけ下げて、何でもないんだという仕草を見せた。

 一方、夢の中で包丁を振り回していたママは、

 店の隅でまだ誰かと電話をしていて、

 チラチラと武井の方へ目を向けたりする。

 眠っていて途中目を覚ましたのか、

 はたまた眠りに落ちる寸前であったのか、

 とにかく武井は、ママと酒屋の主人との会話に耳を傾けながら、

 知らず知らずのうちに眠ってしまい、あっという間に夢を見た。

 その証拠に、今でも彼の隣では、西田という男が目に涙を湛えている。

 ――あの子にもちゃんと謝るからさ、もう勘弁してくれよ……。

「……それじゃあ、あんたも、今から由岐ちゃんとおんなじところに、行って
 貰わないとね! だって、あの子はもういないんだから、この世から……消
 えていなくなっちゃったんだから! 」
 
 夢にはなかった会話の続きを、

 彼は夢現つの状態できっと聞いていたのだろう。

 記憶のどこか片隅に、おぼろげながらそんな言葉が確かにあった。

「でも今頃、死んじゃったお母さんと再会できて、逆に喜んでいるかな……
 もしそうなら、やっと幸せになれるのかもね……由岐ちゃんも、今度こそ本
 当に……」
 
 ひと呼吸置いてのその声に、

 西田の顔は一気に崩れ、、まさに号泣する姿を晒していた。

 武井が目を覚ましてから、

 ボックス席でも少女の話が囁かれ、大凡が武井の耳にも聞こえ届いた。

 由岐という女の子の母親は、彼女を生んで間もなく他界していて、

 その後親代わりとなった母方の祖母も去年亡くなり、

 アル中気味であった父親のところに戻ることになっていた。

 それからたったふた月とちょっと、

 今夜で、彼女の短い人生は終わりを告げた。

 そんな少女の死の直前に、彼はほんの一時、同じ空間にいたのである。

 ――だからって関係ない……俺にはぜんぜん、関係ない話じゃないか! 

 心の底からそう思っているはずが、なぜかあんな夢まで見てしまった。

 さらに酔いと疲れのせいなのか、

 どうにも涙が込み上げてきて押さえ切れない。

 武井はとうとう我慢できずに、ポロポロと涙を流し始めた。

 覚えている限り......ここ30年以上の間、

 武井はほとんど涙を流したことなどなかった。

 涙を流すくらい辛いことなど、この世には存在しないとまで思っていた。
 
 しかし今宵彼の目からは、

 そんな過ぎ去った年月を遡るかのように、

 止めども無く涙が溢れ出ている。

 やがて、少女の死を悼むかのように、店内はひっそりと静まり返った。

 今は誰1人として口を開かず、既に受話器を置いたママだけが、

 カウンターの中で小さな物音を立てていた。

 そんな静まり返った空間に、

 いきなりの声が響き渡るのは、

 武井が落ち着きを取り戻してからすぐのことだった。
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