第4章 危機 -  逃亡

文字数 1,304文字

                  逃亡


 ――くそっ! このくらいのことで、こんなに動揺してどうする! 

 いつもなら、目を閉じていても入力できる暗証番号が、

 手の震えでなかなか上手く押すことができなかった。

 その後の指紋認証も、

 ピーピーと音が鳴りなかなか成立してくれない。

 今、武井は隠し金庫の前にいて、

 既に数分の時を過ごしていたのである。

 人を刺してしまったことは事実なのだ。

 しかし相手はりっぱな家宅侵入で、

 あの小憎らしい刑事に話してしまった通りに、

 ここひと月ちょっとでの怪現象のことだってあった。

 とにかく何より、加治の言ったことが本当であれば、

 すべてが仕組まれた結果だということになりはしないか? 

 彼はそんなことを頭で思い、心に巣くう恐れを懸命に振り払った。

 そして目の前のことにだけ集中すると、呆気なく金庫の扉が開く。

 中にある黒い革製のバッグには、

 常時2千万円という現金が入れられているのだ。

 彼はそれを引きずり出すと、そのまま社長室を出て行き掛ける。

 ところがそこでふと思い付き、

 いつも秘書が用意している携帯を取りに机へと戻った。

 普段であれば誰に何を言われようと、

 携帯など手にしようとは思わないのだが、

 今回ばかりは、持っていた方がいいように思えた。

 彼は携帯をズボンのポケットへ放り込み、

 誰にも会わぬよう祈りつつ一階に下りて行った。

 武井が裏の通用口から出ると、

 ちょうど一台のタクシーが客を降ろしているところだった。

 彼は降り立った客と入れ違いに、

 開いたままのドアから後部座席に滑り込む。

 それから怪訝そうな顔を向ける運転手へ、

 顔を向けぬまま不機嫌そうに行き先を告げた。

「箱根まで行ってくれ」

 足元はサンダル履きで頭はボサボサ、

 そんな格好でもうこれ以上歩き回りたくはなかったし、

 彼はとにかく、今すぐ東京から離れたいと思っていた。

 箱根には別荘があったのだ。

 無論既に彼のものではないのだが、登記上がどうであれ、

 鍵の隠し場所までが変わっているはずはなかった。

 ところが、運転手はしばらく何の反応も見せず、

 エンジンを掛けたまま一向に車を出そうとしない。

 武井はすぐに苛つき、再び声を強めて言うのである。

「おい、何をノロノロやっているんだ! こっちは急いでるんだぞ! こうだ
 から年寄りは嫌なんだ! さっさと車を出してくれ! 」

 その声が車内に響き渡った途端、
 
 年老いた運転手の吐息が一瞬だけ止まった。

 続いて大きなため息を吐いて、

 彼はゆっくりとした動作で車から降り立ってしまうのだ。

「おい! なんで降りるんだ? 早く出してくれ! おい! ちょっと! 」

 武井は反対側のウインドウから外を覗き見て、

 運転手に向かって大声を上げた。

 しかし一向に乗り込もうとせず、

 それどころかポケットから煙草を取り出し、

 いかにも美味そうに吸い始める。

 しばらくの間、さんざん文句を口にしていた武井も、

 まるで反応のない相手に勢いも次第に弱まっていった。

 そしてとうとう、勘弁して欲しい、

 なんならもっと近場だって構わないんだと言い出し、

 ついには頭まで下げ始めるのだった。
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