第3章 恐怖 – 老婆(5)

文字数 725文字

               老婆(5)


「そうさ、あんたは何もしなかった。男のくせに、何もしないまま、ただ逃げ
 出したんだよ。ああ、まったく、酷い話しさ、情けないったらありゃしない
 よ! 」

 ――こいつは、本当に知っているのか!?

「いいかい! あんたこのままじゃ大変なことになるよ! この道のベテラン
 がそう言うんだ! 素直に、話を聞く気になったらどうかね!? 」

 ――大変なこと!? 冗談じゃない! そんなことがあってたまるか!?
 
 彼は心でそう叫び、おもむろに後ろを振り返る。

「何を、馬鹿なことを……」

 その声には、少しだけ安堵の響きが籠もっていた。
 
 老婆に背を向けた彼の目に、

 何事かと視線を注ぐ数人の顔が確かに映った。

 しかし老婆の言っていた女など、どこにも見えやしないのだ。

「いい加減なことを言うんじゃない! 何もいないじゃないか!? さあ、と
 っとと帰ってくれ! ここの払いは要らないから、すぐに出て行くんだ
 ぞ! 」

 武井はそれだけ言うと立ち上がり、
 
 会計を済ませて、さっさとそこから出ていってしまった。

 一方、残された老婆はどうしたかというと……、

「さあて、お聞きになった? 酷い話だねえ……本当に困った男だ。大変だけ
 ど、もうどうしようもないさね……」

 武井の座っていた席に向かって、
 
 いつまでも1人でそんなことを呟き続けている。

「そこは寒くないのかい? とにかく、温かくして頑張っておくれよ……」
 
 まるで、その誰もいない椅子の上に、
 
 赤いワンピースの女でも座っているかのようにして……。

「さあ、とうとう、本番だよ……」

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