第2章 罠 - 山瀬美咲(3) 

文字数 1,370文字

             山瀬美咲(3)


 やがて、脚に纏わり付いていたギプスも取れて、

 歩行訓練の日々が始まる。 

 ところが、寝転んでばかりだったことに加えて、

 きっと重くなった身体のせいもあるのだろう。
 
 なかなか、上手い具合に歩きが上達してくれない。
 
 武井も次第に焦り始め、歩行訓練時間以外にも、

 看護師に付き合わせて病院の廊下で歩く練習を始める。

 ところがそんな時、彼は何度もひっくり返り、

 その度に、付き添いの看護師を大声で怒鳴った。

 ある時、いつも同様、看護師が彼を支え切れずよろめいて、

 危うく2人して倒れ込みそうになる。
 
 しかしなんとか踏み止まって、

 武井が看護師を睨みつけた......その瞬間だった。

「冗談じゃないわよ! 上客さんだからお見舞いに来てたってだけよ! まっ
 たく、変な噂流されたら、こっちだって迷惑だわ! 」

 すぐ先にある婦人用トイレから、美咲の怒声が響き渡った。

 武井が驚いて視線を向けると、

 ドアが勢いよく開け放たれ、そこから美咲が姿を現す。
 
 彼女はすぐに武井を見つけ、その顔に困惑の色が微かに浮かんだ。
 
 そして次の瞬間、つかつかと武井に近付き、

 引き攣った笑顔で別人のような声を出したのだった。

「武井さんのお知り合いの方がね、わたしのことを武井さんの女だなんておっ
 しゃるのよ。社長も趣味がどうとか言っちゃって! 武井さんからもおっし
 ゃっといてくださいな……わたしは、決してそんなんじゃありませんって
 ね……」

 ――どうせわたしは、どっかの場末の女ですもの! 

 ――でしょ? そこのお2人さん! 

 そんな最後の言葉は、
 トイレからこそこそと出てきた女性2人に向けてのもの。

 まさか個室に美咲がいるとは思わず、

 重役の妻たちが、噂話に花を咲かせていたのだ。

 そして、その場からさっさと立ち去っていた美咲は、

 その日を最後に、病院に一切姿を見せなくなる。
 
 そうなって武井は、美咲の存在の大きさを改めて思い知った。

 具体的に、現れなくなった理由を聞いたわけではなかったが、

 美咲の言い様から察すれば、それを想像するのは容易いこと。

 病院にいては、武井に迷惑が掛かる......

 ただでさえ離婚協議中の身なんだからと、

 きっとそんなふうに感じたに違いない。

 武井はそんな心使いを心から嬉しく思い、

 それでもしばらくは、いずれ顔を見せるだろうと高を括っていた。

 ところが数日どころか、一週間経っても美咲は一向に現れない。

 マンションに電話しても留守電で、

 さすがにクラブにまで電話をするのは気が引けた。

 現れなくなって10日目、

 武井は看護師1人引き連れ、病院からある場所へと向かう決心をする。

 彼はタクシーに乗り込むまで、あるいは降りてからの僅か数分の道のりに、

 慣れない松葉杖と共に何度も倒れ込みそうになった。

 その度に、内に強烈な苛立ちが沸き上がる。

 しかし苛立ちをその表情だけに抑え込み、ただひたすら前へと進んだ。

 そうしてようやく、

 見上げる先に、

 目的地だった高層ビルが現れる。 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み