第4章 危機 -  加治靖男

文字数 1,054文字

              加治靖男

 
 もし、今日という日がいつも通りの帰宅であれば、

 武井はシャワーの後、薄いスウェットの上下という出で立ちのはずだった。

 彼の家の空調は強力で、春とはいえまだ寒い日もあるこの頃でも、

 シャワーを浴びている間に適温になった部屋で、

 ずっとそんな格好で過ごしていられた。

 しかし今日、武井が帰宅したのはまだ日の高い時間で、

 さすがにスウェット上下という格好も憚れる。

 だから充分カジュアルではあったが、

 街中でもおかしくないくらいの服装に身を包んでいたのだ。

 それからさらに幸運だったのは、

 キッチン奥の裏口から出ていく時、白い封筒を持ち出していたこと。

 それは翌朝やって来る家政婦への報酬で、彼は前日の朝のうちから、

 念のため備え付けの棚に置いて出掛けていた。

 お陰で、彼はまんまとタクシーを拾って、

 武井商店本社へと向かうことができたのである。

 タクシーが目的地に到着すると、武井は一万円札を手にして、

 横柄な手振りで釣りは要らないことを告げる。

 そして、普段通ることのない裏の通用口から、

 足早に本社ビルへと入っていった。

 出会う社員が皆一様に驚き、何事かという顔を向け頭を下げる。

 しかし彼はそんなものには目もくれず、

 さっさと直通エレベーターに乗り込んだ。

 そして武井が向かう先には、さらに予想外の出来事が待ち受けていた。

「おまえ……ここにどうやって入ったんだ? 」

 社長室の扉を開けた途端、思わず飛び出た武井の声がこれだった。 

 最上階に続く直通エレベーターに乗込むには、

 専用のパスカードが必要なのだ。

 もちろん一般エレベーターでも上がることはできたが、

 その場合は秘書課受付を通らなければならない。

 もしそこを上手く潜り抜けられたとしても、

 社長室に入るには、さらに専用のキーカードが必要となる。

 それは全部で3つしかなく、

 1つは武井の手の中にあり、

 後の2つは総務部の金庫の中と、

 セキュリティ会社に預けてあるはずだった。

 ところが男は中にいた。

 武井の椅子にふんぞり返り、強ばった顔で彼のことを見つめているのだ。

「何の用だ!? こっちは忙しいんだ! とっとと出て行ってくれ! 」

 武井が声高にそう伝えた人物、

 それは久しぶりに目にする加治靖男であった。

「本当にいらっしゃったんですね。こりゃ驚いた……」

 加治はフッと微かな笑みを見せて、まるで独り言のようにそう呟いた。

 それから、机の上にあった両腕をゆっくり胸に組み直し、

 さも嬉しそうに言うのである。
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