第3章 恐怖 -    霊(3) 

文字数 1,587文字

               霊(3)


 一瞬、浮かんだそんな思いに、武井はバカバカしいと首を振る。

 まさにその時、ほんの少しだけ陳社長から目を離した瞬間だった。

 きっと武井以外にも、彼を目で追っていた人物がいたのだろう。

 ハッと息を呑み込んだ気配と、いくつかの掠れた声を背後に感じる。

 続いてドスンという物音……一瞬の静寂。

 さらにひと呼吸置いて、重なり響く怒号と叫声が辺り一面飛び交った。

「あそこから自分で飛び降りたんだ! 俺は見てたぞ! 」

「誰か携帯で救急車を呼んでくれ! 早くだ早く! 」 

 吹き抜けとなっている会場2階から、

 陳社長が1階へとその身を投げたのだった。

 武井は耳に届いた声によって、

 立ち尽くしたままその行為の行方を思い浮かべる。

 ――死んだんだろうか?

 そう思って視線を上げるが、当然社長の姿は既にない。

 ところが飛び降りる直前までいた辺りに、

 なんとさっきの女の姿があるではないか。

 彼が手を掛けていた手すりに、

 平然と腰を下ろして足をぶらぶらさせている。

 それは本当に楽しげな顔付きで、

 大騒ぎしている足先の遥か下へと目を向け、

 さも嬉しそうに階下の様子を眺めているのだ。

 あれ? 

 武井はふと女の顔に、どこか見覚えがあるような気がする。

 よくよく見れば、その顔立ちはなかなかの美形であるようにも見えた。

 しかし長い髪は乱れに乱れ、

 顔の半分近くを覆い隠して本当のところはよく分からない。

 ――きっと、髪を梳かし化粧でもすれば、

 ――そこそこ見られる顔立ちなのかも知れないな……。

 などと思った。

 するとその時、彼の耳元で囁くような声が聞こえてくる。

「ここ出ませんか? なんだか気分が悪くなっちゃって……」

 まさに吐息が感じられる距離、彼のすぐ後ろから囁かれたそれは、

 武井の知っている女性からのものだった。

 今日、ついさっき初めて紹介された女性で、

 武井は彼女の美しい顔立ちにひと目で魅了されていた。

 彼はその声に思わず、

 ――もしかして、あの女の姿があなたにも見えたんですか? 
 
 一瞬そんなことを言い返しそうになる。

 けれどそれが口を衝いて出る前に、女性はさっさと歩き出してしまうのだ。
 
 真っ赤なハイヒールがコツコツと音を立て、

 金色に光るパーティーバッグと共に見る見る武井から遠ざかっていく。

 どう考えても、平気でいられる高さではなかった。

 もし陳社長が死んだなんてことになれば、

 警察に尋ねられることにだってなるのかも知れない。

 何を聞かれようが構わないが、

 今夜、このまま拘束されることだけは避けたいと思った。

 彼女の美しさに心引かれていたことも事実だったが、

 さらに重要だったのは、さっき彼女を取り囲んでいた男たちすべてが、

 台湾政財界で名立たる人物ばかりであったということ。

 紹介され手渡された名刺にはどれも、

 耳にしたことのある大企業のロゴマークや、

 肩書きのたくさん付いた政治家の名があった。

 ――きっと、相当な人脈を持つ家筋なんだ。

 絶対、親しくなっていて損はない。

 国内ではかなり顔の広い武井にとっても、

 彼らはこれまで縁のなかった人物ばかり。

 もし、今幽霊の話などを持ち出して、

 不審がられることの方がより怖かった。

 だから彼は浮かんだ言葉を口にせず、

 ――さっきのあれは、いったいなんだったのか? 

 そんな渦巻く疑問を振り払い、女性の後をただ追うことに決めた。

 そして、会場を後にしてエレベーターに乗って初めて、

 ふたりは向き合い、ぎこちない笑顔を見せ合った。
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