第9章 喪失 - 夢から覚めて(3)

文字数 862文字

                 夢から覚めて(3)


 最低の夫に悩まされ、働き通しだった彼の母は、

 幼い日の武井の目にも、いつもどこか不機嫌そうに映った。

 しかし彼女は武井を嫌っていたわけではなく、

 ろくに働きもせずに、他所の女にばかり現を抜かす父親から、

 なんとかして彼を遠ざけようとしていたのだろう。

 もしかするともうその頃には、

 武井を連れて、家を出る覚悟を決めていたのかも知れない。

 今になって考えれば、少しくらい気付いてもよさそうなことだった。

 2人っきりで暮らし始めた頃からの母を思えば、

 幼い頃の記憶に疑いを持っても良さそうなものなのだ。

 それなのに、彼は堅く心を閉ざしたまま、母親から背を向け続ける。

 ほんの小さな穴から覗き見ているように、

 本当の母の姿を見ようとせずに......これまでずっと生きてきた。

「ごめん……ごめんよ……」

 まだ認知症を発症する前の良子の顔に、彼は囁くようにそう詫びる。

 もうどうなったって構わない、心からそんな気分になっていた。

 なぜか眠くて仕方がなくて、彼は写真を胸に抱きしめ目を閉じた。

 するとあっという間に意識が薄れ、

 深い闇に落ちていく自分を感じることができるのだった。

 ――このまま死んだって……なんの、文句もない……。

 極上の心地よさに包まれ、彼は心の隅でそんなことを思う。

 ところが不思議なことにそんな思念が消え去らない。

 ソファに座り、自分は目を閉じている。

 そう感じている自分が、いつまで経っても脳裏に居座り続けるのだ。

 そしてふと……微かに思った。

 ――まさか……俺は今、寝たのか? 

 一瞬と思える深い眠りに、寝ていたことさえ気付いていない? 

 それとも、たった今初めて目を覚まし、

 これまでのことすべてが夢だった……って落ちなのか? 

 そう思って間もなく、彼は胸に抱えた写真立てへと意識が及ぶ。

 ――ない!? 

 写真立てが、ものの見事に消え去っていた。
  
 どこをどうまさぐっても胸元には何もなく、

 それどころか、手にあたる感触があり得ない姿を想像させた。
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