第1章 武井信 - 母 良子 〜 柴多芳夫

文字数 3,349文字

                 母 良子   


 武井は中学に上がった頃から、ある意味ずっと独りだった。

 学校にも友達はおらず、2年生の終わり頃には母一人子一人になっていたから、

 母親はいつも働きに出ていて家にはいない。

 もちろん小さなアパート暮らしで、その頃は確かに、彼の家庭は貧しさの中にあった。

 それでも、彼が高校に上がった頃から、

 貧乏であるという認識を、ほとんど持たずに暮らせるようになる。

 つまりそれだけ、母親は朝から晩まで働き通しであったのだ。

 その母親も、彼が就職して10年もすると仕事を辞め、一人生まれ故郷に戻っていた。

 ところが年も押し迫っていた頃、自宅の階段を踏み外して骨折してしまい、

 それ以降満足に歩けなくなってしまう。

 それで仕方なく、武井は母親を東京の施設へと呼び寄せるが、

 彼が母親に優しい一面を見せたかというと、それはまるで違っていた。

 母親の面倒ほとんどを妻の優子に任せ、彼はまったく関わろうとはしない。

 優子がその理由を尋ねようものなら、

「嫌なら業者に頼むと言ってるだろう!? 何のために介護保険料を払ってる? まさにこんな
 時のためじゃないのか!? 」
 
 などと言ってくる。

 優子は驚きながらも、

「嫌だなんて一言も言ってないじゃありませんか? 一度くらい顔を見せてあげてと言ってるん
 です。一度も顔を出さないなんて、普通じゃないわ……」
 
 息子に会いたがっているだろう義母のことを思い、懸命にそう説得を試みた。

 しかし何をどう言おうとも、彼は一度たりとも会おうとはしなかった。

 そして新しい環境の中、彼の母親は日に日に認知症の症状を見せ始める。

 歩けなくなった――やっぱりこれも、そんなことに影響していたのだろう。 

 とにかくそれは優子にとって、あまりに早過ぎる進行に思えるのだった。

 そんな不安を、優子が充分溜め込んでいたある日のこと、

「今日これから、お義母様のところに行ってこようと思ってますけど……」

 昼も近くなって起きだしてきた武井へ、優子が遠慮がちにそう言った。

「いや、午後から少し出掛けなければならない。それに、俺が行ったところで何もできん。まあ
 施設の手前もあるし、誰も行かないってのもまずいだろう……」
 
 だから、優子ひとりで行って来いと、彼は平然と返してくる。

 週末はいつも朝っぱらからゴルフなのだ。

 しかしその日は珍しく、武井は朝から家にいた。

 それで思いきって声にした優子だったが、返ってきた答えは、いつもとなんら変わらない。

 その日の午後、優子が目の当りにしたのは、たった3週間で変わり果ててしまった義母の姿。

 知らぬ間に部屋が変わっていて、

 案内されやっと目にしたその姿に、彼女は歩み寄ろうとした足を思わず止めていた。

「すみません……息子さんへはご連絡したのですが、もう一般階ではお世話が難しくて、先週か
 ら認知症専門階にいらっしゃるんです……」
 
 だから、一日中部屋の隅に放っておかれても仕方がない……まさにそんな印象の声だった。
 
 武井の母親は薬でも飲まされているのか、優子の声掛けにちっとも反応を見せなかった。

 ぼうっと何もない空間を見つめ、口元から粘っこい唾液を滴らせている。

 その唾液が滴る先には、ちょっとやそっとではない時の流れがしっかりと印されているのだ。

「お義母さん……」

 優子はひと目見てそう呟いた後、

 まだ廊下にいるだろう案内してくれた介護士を追って、慌てて部屋を飛び出していった。


                   柴多芳夫


 武井商店本社ビル28階、社長室。

 書類を手に持ち、柴多が武井を睨みつけ立っている。

 彼はいつものようにノックもせず入り込むと、その勢いのまま大声を出した。

「これはいったいどういうことです!? 物流部門への出向って、どうして加治がそんなところ
 に行かなくちゃいけないんですか!? 」
 
 子会社である物流会社への出向辞令が、ついさっき人事部から柴多の元へと届いたのだ。

「いや、残念ながら彼は行かないよ。実はつい今しがた、行かないというより行けなくなったん
 だ。加治くんは自ら進んで、この会社を辞めるんだそうだ。だからこの話もなしってことに
 ね……」

「あなたは……わたしの許可なしに、商品開発部の人事をお決めになったのですか? 」

「いや、人事部長から確認の連絡がいってるはずだぞ? いってなかったのか? 」

 わざとらしいほどに神妙な表情を見せ、武井が柴多にそう聞いてくる。

 確かに、さっきまで加治はこの部屋にいて、不思議なほど冷静な表情で武井へと告げていた。

「わたしは、物流センターを管理するために、この会社へ来たわけではありませんから……」

 そして辞表の入った封筒を懐から取り出し、机の上に静かに置いて出ていった。

「柴多さん、これが彼の退職届なんで、処理の方を頼みますよ。それで後任なんだけど、次が見
 つかるまですみませんが、副社長であるあなたがやってください。かなり異例な人事になる
 が、とにかく次が決まるまでだから、昔のように、ビシビシとお願いしますよ」
 
 満面の笑みを浮かべて、武井が封筒を柴多の眼前へ突き出した。彼はそれを受け取りながら、
 
 ――加治には受験を控えた子供が2人もいて、家だって買ったばかりなんだぞ!

 そんなことを叫びたい衝動にかられる。

 しかし実際に彼の口を衝いて出たのは、ここ数年心の片隅にずっとあった台詞で、

「あんた、最近少しおかしいぞ……」

 という嘆きと思しきものだった。

 その夜、柴多は加治の自宅を尋ね、沈痛な面持ちを見せて心から詫びた。

 それから駅前の居酒屋に加治を連れ出し、終電ぎりぎりまで痛飲する。

 ふたりして、武井への文句をさんざん言いまくった後、

 柴多はフラフラになって自宅に辿り着いた。

 すると妻が心配そうに、

「何かあったんですか? こんな時間までお飲みになるなんて……本当に珍しいわね」

 水の入ったコップを片手にそう言って、柴多から上着を脱がそうとする。

 その時、柴多はいきなり廊下に座り込み、悲しげな顔で妻を見上げながら、

「会社を、辞めようと思うんだ……」

 などと突然言い出すのだった。

 しかし妻の方はまるで驚く様子を見せないのだ。

 それどころか、柴多の真ん前にしゃがみ込み、

「あなたがどうしても辞めたいのなら、ダメだなんて言えないもの……でも、どうしてそう思う
 のかくらいは、わたしにも教えてくれるんでしょ? さあ、なんでもおっしゃってください
 な……」
 
 そう告げた後、彼女は両手を頬に当て、さも嬉しそうにニンマリと笑った。
 
 柴多がそんな弱音を吐いている頃、深夜にもかかわらず、武井は未だ会社にいた。

 さすがに日付も変わる時刻になって、仕事をしている社員は疎らとなっている。

 こんな時間に残っている社員は、だいたいが始発まで働き続けるつもりだろう。

 才能に恵まれた一握りの人間でない限り、そうやって踏ん張ることこそが成功への近道。

 武井もそんな思いで走り続け、今ある地位を築き上げた。

 ――あんた、最近少しおかしいぞ……。

 そんなことを言い出す柴多の方こそ、変わってしまったように武井には思えた。

 ――優子と出会って……俺は知らぬ間に、少し腑抜けていたのかも知れない……。

 思い出すだけで心が震え、身悶えしそうになる幼い頃の記憶を、

 彼は優子と出会ってからずっと忘れ去っていたのだ。

 しかし夫婦関係が完全に冷え切ってしまった今、

 それは再び、彼の心の中心にどっしりと座り込んでいる。

 ――俺はひとりぼっちで充分だ……誰の助けもなしに、とことんまで上り詰めてやる!
 
 そんな彼の強烈な思いは中学の頃には既に、しっかりと形作られていたのであった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み