第4章 危機 -  臭気

文字数 1,084文字

                  臭気
           
 武井が本社ビルを後にしたのは、まだ午後になって間もない頃……。

 午後からも当然、彼の予定はびっしりと詰まっていたのだ。

 しかしどうにも、仕事への意欲が涌かず、

 すべての予定を、強引にキャンセルしてしまう。

 どうしてあそこまで? 

 彼はしばらくの間、ずっとそんなことばかりを考えていた。

 ――それから、女の姿だけじゃなく、声までが聞こえてくるんです! 

 我ながら馬鹿なことを言ったものだと、

 思い出すだけでムカつき、腹が立った。

 武井は殺された女のことだけではなく、

 妻優子と別居に至るまでの経緯や、

 自宅で起きている不可解な現象についてまで口にしてしまい、

 それはまさに、まんまとしてやられたという感じだった。

 それにしても……女は〝飯倉〟などではなく、

 〝飯田良子〟なんだと中津は言った。

 それはなんとも不思議な一致で、

 偶然としてしまうには、あまりに奇妙な符合に思えた。

 飯田とは、父親本来の姓(武井姓は母親のものであり、婿入りしていた父親
 
 は、離婚後すぐに飯田姓へと戻っていた)であり、良子という名前こそ、

 まさしく彼の母親の名でもあった。

 そんなただの偶然とは思えない名前の女が、

 武井の前から忽然と姿を消し去り、

 マンションの一室で、なぜか素っ裸で死んでいた。

 しかも彼女は武井商店の社員で、

 ひと月以上も無断欠勤した上で発見されたのだという。

 契約社員がなぜ、どんな理由で武井に近付いたのか……?

 あるいは近付こうという目的を持って、

 この会社に現れたのだろうか……? 

 しかしどちらであろうと、あの目を見張るほどの大邸宅と、

 そこで起きていた大騒動を考えれば、ことはそう単純であるわけがない。

 この一連の出来事は、間違いなく何かがおかしかった。

 ――どこかに、きっと嘘があるんだ……。

 彼は堂々巡りのようにそんなことばかりを考えながら、

 中津が帰ってから1時間ほどで地下3階へと下りてきた。

 ここに下りることができるのは、

 最上階と直通で行き来できる役員専用エレベーターだけ。

 今、彼の前には、経営のトップである武井の車や、20名の役員のうち、

 自家用車で通勤している10名分の車があった。

 それらのほとんどがドイツやスウェーデン製だが、つい数ヶ月前までは、

 彼の駐車スペースの隣に、古くさい国産車が並び置かれていたのである。
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