第2章 罠 - 侵入者(2) 

文字数 1,429文字

               侵入者(2)


 もう夏の気配は完全に消え失せ、

 まだ午後6時だというのに、既に辺りは暗くなり始めている。 

 武井優子はひとりリビングで、

 帰ったばかりの矢島のことを考えていた。

 矢島健介59歳――衣料品メーカー「ビーナス&マース」の代表で、

 彼は武井にとって大恩人とも言うべき人物だった。

 出身大学が同じということもあったが、

 矢島は何より、武井の生い立ちからの奮起に共感を覚えたのだろう。

 武井商店の事務所がまだマンションの一室だった頃、

 社運をかけた目玉商品が大コケするということがあった。

 すぐに挽回を図らねば、小さな会社などあっという間に、

 沈没してしまうという時、救ってくれたのも矢島健介だった。

「矢島さんの会社の新しいブランド、うちの独占販売にしていいって言ってく
 れたよ。これできっと、なんとかなるぞ! 」
 
 そう言って武井は、矢島からの申し出に涙まで流して喜んだ。

 他にも、手形が不渡りになりかけた時など、

 矢島のおかげで切り抜けられたことが何度となくあった。
 
 そうして武井の会社は急成長を続け、

 とうとう東京の一等地に自社ビルを構えるまでになる。
 
 完成後の落成式の日、
 矢島は自分のことのように喜び涙まで流していたのだった。

 ところがつい一時間ほど前、

 そんな矢島が優子の前で、あまりに憔悴し切った顔を見せていた。

「あなたにまで迷惑を掛けてしまって、何と詫びればいいのか……」

「迷惑だなんて、矢島さん、そんなことありませんよ。さあ、顔を上げてくだ
 さい」
 
 差し向かいでいる矢島へ手を伸ばし、優子は懸命にそう声を掛けた。

「今ならばまだ、従業員に退職金じみたものを渡せそうなんだ。だから会社は
 たたんで、故郷で女房と農業でもしようと思ってる……来年は、わたしも還
 暦だし、ただ……」

 そこでいったん言葉を止めて、

 矢島は優子の目だけをしっかりと見つめる。

「ただ……お借りした金を、全額はお返しできそうもないんだ……本当
 に……」
 
 ――申し訳ない……。

 最後の言葉ははっきりとは声にならず、ただ嗚咽だけが響き聞こえた。

 半年ほど前だった。
 
 優子は矢島と武井の会話を耳にして、

 彼が経営する会社の危機を偶然知った。
 
 彼女は武井に内緒で、両親が残した遺産の残りすべてを矢島へ差し出すが、

 とことん厳しくなった状態を回復させるには至らない。

「いいんですよ、矢島さん……そんなのはもういいんです。確かにわたし、両
 親の残してくれたお金のおかげで、大学まで行くことができました。でも、
 それだけじゃないんです。小学生で孤児になったわたしを引き取り、育てて
 くれた親戚夫婦や、励ましてくれた友人らのおかげで、今のわたしがあるん
 です。同じように矢島さん、わたしの今ある生活は、あなたなくしては決し
 てあり得なかったんですよ……だから、本当にお気になさらないでくださ
 い……」

 優子は清々しい笑顔でそう言うと、頷くように頭を垂れた。

 その瞬間、きっと抑え込んでいたものが一気に溢れ出たのだろう。
 
 矢島がいきなり顔を覆って大声で泣き出した。

 それからしばらく矢島の声だけが響き、

 そんな彼の様子を、優子はただただじっと見守った。
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