第6章 反撃 - 追跡(5) 

文字数 1,570文字

                 追跡(5)



 ー 会社を、辞めることになったのは、
   本当にいい機会だったと思っている。

 ー もし、こんなことにでもならなければ、
   自分はきっと、70歳になっても働き続けていただろう。

 ー でもおかげで、家族との時間が何よりも大切なんだと、
   今は、前以上に思えている。

 ー それでも、これまでの会社人生は素晴らしいものだったし、
   武井さん、あなたには本当に感謝している……しかしだからこそ、
   これだけは信じて欲しい。

 ー わたしに、あんなことをする意味がどこにあるのか? 
   よく考えて欲しいんだ。

 ー 写真の件は、わたしではない。
   わたしであるはずが、ないじゃないか?〟

 ー 今朝、この2日間きみが行方不明だと聞いた。

 ー いったい、きみは今どこで、何をしているんだ?

 ー 妻もわたしも心配している。

 ー きっと優子さんだって同じだろう。

 ー どうか、この留守電を聞いたら、わたしにすぐに電話をくれ。

 ー どこへだろうが迎えに行くぞ。

 ー 30年乗っている俺の愛車で、
   今すぐ、おまえを迎えに行ってやるから……。


               ✳︎

 
 もちろん、事件のことは知っているだろう。

 柴多はそのことには一切触れずに、大凡こんな内容を留守電に残した。

 ――やっぱり、敵わない……。

 仕事においては、決して自分が劣っているとは思わなかった。

 しかしそれ以外のことについては、
 
 ずっと心のどこかで、そんなふうに思っていたのかも知れない。

 仕組みを考え、そして形にしたのは確かに武井の方だった。

 しかし、もし柴多の存在がなかったら、

 何人の優秀な人材が流出せずにいただろうか? 

 心の片隅で感じてはいたのだ。

 社内外における彼への信頼は絶大で、

 だからこそ、一流企業としての今があるんだと……。

「許して……くれ……」

 ふと声になった言葉は、いったい誰に向けてのものなのか? 

 それはきっと、自分に関わった人すべてに向け発せられていたに違いない。
 
 自分はいったいこれまで、

 どれほどの人を軽んじ、不快な思いをさせてきたのか? 

 きっとその結果がこの状況なんだと、

 彼はその時、己の人生を葬り去りたいとまで思った。

 それからタクシーは高速に乗って、

 最後まで男の車を見失うことなく、箱根の別荘地に到着する。

 そして今、先に別荘に行ってるから――そう言っていた男が、

 勝手知ったるという印象のまま、林の中の一本道を上っていく。

 武井はタクシーが高速を降りた辺りから、

 鼓動は高鳴り、苦しいほどの胸騒ぎを覚えていた。

 実は彼は何度も、この辺りに来たことがあったのだ。

 先行く男が歩いていく一本道こそが、優子に譲渡した別荘へと続くもの。

 そんな中、後を追う武井はふとした弾みに、

 遠く前を行く男の姿を見失ってしまう。

 しかし、ここまできてあの別荘が無関係であるわけがないと、

 彼は左右にカーブを描く道をただひたすらに歩いていった。

 その先にあるのは、国内にいくつかある別荘の1つで、

 以前飼っていた大型犬のために購入した物件だった。

 だからやたら土地だけは広く、こぢんまりした建物の周りに、

 荒れてしまった芝地がどこまでも広がっていた。

 もう門までの距離はすぐだったが、

 その先にはやはり芝地が続き、建物まではまだかなりの距離がある。

 それでも彼にははっきり見えた。

 ――何を、してるんだ!?

 武井が目を向ける遥か先、

 遠くに見える建物の周りで、たくさんの人影が動き回っていた。

 武井はそれから、死角となりそうな障害物に身を潜めながら、

 建物へと塀伝いに近付いていく。

 そしてその光景が目の前となった時、彼は物陰から思わず呟くのである。

「これはいったい……どうなってるんだ……? 」
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