第5章 迷路 - どん底

文字数 1,085文字

               どん底


 はじめは、まさか自分のことだとは思わない。

「ネット通販最大手、武井商店の創業者で……」

 しかしそれはまさしく、武井本人のことを告げていた。

 彼は社名を耳にしてやっと、そうであることを確信する。

 しかしあまりの驚きに、すぐに反応することなどできない。

 それは間違いなくテレビからの音声で、

 殺人の容疑者として、その名が上がっていたからだった。

 その時、彼の背後で、

 常連客の1人がリモコンをテレビへと向けたのだ。

 静か過ぎる店内に嫌気でもさしたのだろう。

 ニュース映像が映り音声が響き渡ると、

 その客は満足げにリモコンをテーブルへと置いた。

 武井は周りの客の視線に注意しながら、恐る恐るテレビに顔を向ける。

 すると彼の目に飛び込んできたのは、まさしく己の顔なのだ。

 ――○○クラブホステス従業員、〝山瀬美咲〟さんが昨夜、

 ――武井信の自宅で死体となって発見され……。

 武井信は、先月〝池袋のマンション〟で、

 やはり死体で発見された

〝飯田良子〟さん殺人事件の重要参考人であり……。

 警察は本日、武井信を全国指名手配に……。

 訳が分からなかった。

 指名手配されたということにではなく、

 その理由の方にまるで納得がいかない。

 昨夜、死体で発見されたのが〝山瀬美咲〟? 

 それも、〝見知らぬマンション〟などではなく、

 武井の自宅で発見された……? 

 ――あれは絶対に、山瀬美咲なんかじゃなかった!

 刑事の話では、飯田良子はひと月以上前に殺され、

 武井はその重要参考人のはずだった。

 ところが昨日、

 死んだと聞かされていた飯田良子が生きた姿で現れ、

 混乱のまま刺し殺してしまう。

 どうしてその死体が、いきなり山瀬美咲になってしまうのか? 

 もしそんなことが事実なら、

 ――美咲も……死んでしまったのか!? 

 やはり彼女の失踪は、本人の意思によるものではなかったのだろう。

 美咲は殺害され、

 想像もつかない何か理由によって、

 2人の死体をどこかの誰かが入れ替えた? 

 そして武井の知る限り、そんな2人に共通するのは、

 やはり彼自身との関わりに他ならない。

 ――くそっ……やっぱりあれは、本当のことなのか?

 そう思うと同時に、武井の脳裏に加治の顔が思い浮かんだ。

 テレビ画面では、未だに彼の自宅が大写しとなっていて、

 その片隅には、さっきとは異なる武井の顔写真が並び映っている。

 ところがその顔画像はどれも事故前のもので、

 恐らくは、30キロ近い脂肪が纏わり付く以前のもの。

 今の彼の姿を知る者にとっては、

 到底同一人物と思えぬくらいの代物だった。
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