第5章 迷路 - どん底(3)

文字数 821文字

               どん底(3)


「おい! いないのか!? 」

 その瞬間、麻衣が飛び退くように離れ立ち、

「ごめん! うちのが帰って来ちゃった! 」

 両手を合わせ、そんなことを言ってくる。

 それはきっと、階段下から2階を見上げての声だったのだ。

 次の瞬間、あ然とする武井の耳に、階段を上がる重い足音が聞こえてくる。

 それからは何がなんだか、己の動きすべてが他人事のようで、

 気が付くと彼はベランダにいて、

 シャツとズボンを抱えてしゃがみ込んでいた。

 一瞬にして酔いが醒めたように思えたが、

 しばらくして立ち上がってみると、

 まだかなりフラついているのが分かる。

 ただ幸いなことに、そこから一階へ続く非常階段へは、

 そんな武井でもなんとか飛び移ることができた。

 彼は裸足のまま歩き回り、やっと見つけた小さな駅へと入り込む。

 そして、月明かりの差し込む待ち合いのベンチで横になった。

 震えるほど寒かったが、

 それ以上に、先行きの見えないことの方がよっぽど辛い。

 これから自分は、いったいどうなってしまうのか……? 

 これまで感じたこともない不安に、彼の目に再び涙が滲んだ。

「優子……」

 思わず妻だった女の名を呟いていた。

 心細さで女の名を呼ぶ。

 それも離婚を迫られ、今や他人となっている女の名をだった。

 まさかそのような自分がいるなんてことを、

 武井はこれまで露ほども想像したことさえない。

 とにかく情けなかった。

 情けなさを感じれば感じるほど、己の不甲斐なさに身悶えしそうになった。

 ――誰のせいでこんなことに!? 

 ――俺はこのまま、本当に終わってしまうのか!?

 そんな不安を打ち消そうとするほどに、

 たとえようもない怒りが込み上げてくる。

 ――絶対に、突き止めてやる! 

 こんな目に遭わせたやつを絶対に探し出し、

 ぎゃふんと言わせる……そのためならば、財産すべて失ったって構わない。

 彼はそんな決意に縋り付き、やっと静かに目を閉じた。
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