第96話

文字数 882文字

 何か事件があって、人が海に落ちたらしい。

 その落ちた父親の、小学生だかの娘が、落ちる直前の彼の姿をスマホで撮っていたという、その映像がニュースで流れている。
 船の向こう側のへりを網をかついで歩いていくのが彼だそうだが、映っているのがあまりに一瞬で、よくわからない。赤褐色の網に飾りのように色とりどりの点が見えたのは、魚だったのか。

 人が一人死んだというのに、誰にも悲壮感がない。
 船からして、まるで遊覧船だ。

 と思ううちに、私がその遊覧船に乗っていて、もういきなり大渦巻きの上に来ている。すさまじい白いしぶきで、水はラムネ瓶のような緑色だ。これだから落ちたんだ、と私も思わず声が出る。
 けれども船は頑丈で大きく、大渦巻きのふちをゆっくりかすめて、お約束のように少しばかり旋回してみせはするものの、安全に渦を横切って進んでいく。

 そこからどうやって陸に帰ったのかわからない。
 落ちた若い知らない父親が住んでいたはずのアパートに、私はいる。
 手洗いと風呂がガラス戸で仕切られたせまい空間で、西陽が当たっている。

 私が浴室にいて、脱衣場に誰かいて、誰だか思い出せないけれど、高校の同級生のNさんかもしれない。
 閉めきったら危ない、と彼女か私のどちらかが言い、言い終わらないうちに、いきなり脱衣場の外から何かガスを噴入され、二人して青ざめる。

 が、一瞬ののち、脱衣場も浴室もひじょうによい香りで満たされ、しかもそれぞれ別の香りなのだ。
 私のいる浴室側は、ローズマリーを使った肉料理のような香ばしい匂いで、彼女のいる隣室はもっと甘い、花を草に混ぜた香りらしいと、嗅ぐ前からわかるので、ガラス戸に手をかけて開けようとすると、開かない。
 ここで私たちは本格的に青ざめる。

 そして私が悟ったのは、
 あの父親はけっきょくこうして死ぬ運命だったのだということで、
 その片方が彼に実現し、
 もう片方が私に実現したことについても、
 私はまるで乗る予定だった乗り物に乗ったときのように、落ちついて受けとめている。


※全文、ほぼ起きてすぐ書いたメモのままです。最後の一文は完全にそのままです。

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