第88話
文字数 1,564文字
また学生になってドイツにいる。
真澄さんと同じ部屋に住んでいる。
真澄さんが何か作業をしていて(絵を描いているのかな)、私は、おなかすいたからちょっと出てくるねと言って、その寮とも校舎ともつかない建物のどこかにある食堂で何か食べるつもりで、出かける。
床がずっと黒いリノリウム。
白く傷のように見えるのは、大理石を模しているのかもしれない。
はじめのうちは調子よく、店で何かパイ菓子のようなものを選んで、あとはコーヒーがほしいなと思い、ふりかえると、左手はもう戸外で、つつじがいっぱいに咲いている。
カウンターの後ろの高い所にメニューが書いてある。今風のしゃれたカフェテリアで、学食というより美術館のようだ。
ところが、お金を払う段になって、財布がない。あわてて自分の身体中を探すけれど、ない。
とにかく謝る。
カウンターのお兄さんは逆光で顔が見えないけれど、まちがいなくあきれている。
部屋に戻って財布をとってこようと思って、エレベーターホールまで小走りで来て、来たエレベーターに飛び乗ったのはいいけれど、どのボタンを押したらいいかわからない。ものすごくたくさんボタンがあるのに、一、二、三、四、五の次がずっとなくて、あとは十だの二十だの五十なのだ。
べそをかいて、エレベーターを降りると、さっきのカフェテリアに戻ってしまう。
戻ったら、いつのまにか人がぎゅうぎゅうに混んでいて、部屋の隅から一歩も動けない。
旧式の黒電話のような謎の機械が二台ある。
横にいつのまにかマアコちゃんがいて、プリペイドカードのチャージ機だと教えてくれる。口でそう言ったのではなくて、ついと手をのばして「こうするの」と言って、お札を入れてカードをかざすと、カードに電子の光が走ってチャージされたことがわかる。小数点以下まであるので、ユーロらしい。
私は感心して、自分もチャージしようとしたら、そもそもお財布がないのだった。
今度はマアコちゃんに平謝りして、たしか十ユーロ借りる。
マアコちゃんは少しも気にしていなくて、まわりの人たちにもつぎつぎとお金を貸してあげたり、チャージ機の使い方を教えてあげたりしている。
体の大きな白人の若者で、淡い縞のポロシャツを着てバックパックを背負った子(誰)が来て、やっぱりチャージのしかたがわからなくてマアコちゃんに尋ねている。マアコちゃんは根気よくみんなの面倒をみてくれている。そういうところ、高校時代と変わらない。
私もやっとカードにチャージできたので、さっきのカウンターに行って食べ物を買おうと思うけれど、それにしてもつつじがものすごく多い。
座面と背もたれを籐で編んだパイプ椅子も、やたらにたくさんある。
横で吹奏楽の人たちが演奏している。
マアコちゃんがうっすらと笑いながら
「コンサートの前に自分たちのCDはかけないでほしいよね。がっかりするから」
と言う。
「それは、下手だっていうこと?」
私がショックを受けて訊くと、マアコちゃんはうっすら笑ったまま、無言でカウンターに向かう。やっぱりマアコちゃんはすごいひとなのだ。私、なんだか感心しながら追いかける。
けっきょく何を買って食べたかわからない。
部屋に戻ると、なぜか次の日になっている。
連絡なしに一晩、留守にしてしまったことになる。
おそるおそる入っていくと、作業台の上に紙やら定規やら散らかったまま、台所で真澄さんが新聞紙をかぶって寝ている。徹夜したらしい。
申し訳なさに泣きそうになっていると、真澄さんが起き上がって
「おかえり。心配したよ」
と淡々と言う。
その口調から、どうしようもなく傷ついていることがわかって、私はとほうにくれる。
真澄さんは目を合わせてくれないまま、尋ねる。
「何かおいしいもの食べた?」
けっきょく何も食べていなかった。
真澄さんと同じ部屋に住んでいる。
真澄さんが何か作業をしていて(絵を描いているのかな)、私は、おなかすいたからちょっと出てくるねと言って、その寮とも校舎ともつかない建物のどこかにある食堂で何か食べるつもりで、出かける。
床がずっと黒いリノリウム。
白く傷のように見えるのは、大理石を模しているのかもしれない。
はじめのうちは調子よく、店で何かパイ菓子のようなものを選んで、あとはコーヒーがほしいなと思い、ふりかえると、左手はもう戸外で、つつじがいっぱいに咲いている。
カウンターの後ろの高い所にメニューが書いてある。今風のしゃれたカフェテリアで、学食というより美術館のようだ。
ところが、お金を払う段になって、財布がない。あわてて自分の身体中を探すけれど、ない。
とにかく謝る。
カウンターのお兄さんは逆光で顔が見えないけれど、まちがいなくあきれている。
部屋に戻って財布をとってこようと思って、エレベーターホールまで小走りで来て、来たエレベーターに飛び乗ったのはいいけれど、どのボタンを押したらいいかわからない。ものすごくたくさんボタンがあるのに、一、二、三、四、五の次がずっとなくて、あとは十だの二十だの五十なのだ。
べそをかいて、エレベーターを降りると、さっきのカフェテリアに戻ってしまう。
戻ったら、いつのまにか人がぎゅうぎゅうに混んでいて、部屋の隅から一歩も動けない。
旧式の黒電話のような謎の機械が二台ある。
横にいつのまにかマアコちゃんがいて、プリペイドカードのチャージ機だと教えてくれる。口でそう言ったのではなくて、ついと手をのばして「こうするの」と言って、お札を入れてカードをかざすと、カードに電子の光が走ってチャージされたことがわかる。小数点以下まであるので、ユーロらしい。
私は感心して、自分もチャージしようとしたら、そもそもお財布がないのだった。
今度はマアコちゃんに平謝りして、たしか十ユーロ借りる。
マアコちゃんは少しも気にしていなくて、まわりの人たちにもつぎつぎとお金を貸してあげたり、チャージ機の使い方を教えてあげたりしている。
体の大きな白人の若者で、淡い縞のポロシャツを着てバックパックを背負った子(誰)が来て、やっぱりチャージのしかたがわからなくてマアコちゃんに尋ねている。マアコちゃんは根気よくみんなの面倒をみてくれている。そういうところ、高校時代と変わらない。
私もやっとカードにチャージできたので、さっきのカウンターに行って食べ物を買おうと思うけれど、それにしてもつつじがものすごく多い。
座面と背もたれを籐で編んだパイプ椅子も、やたらにたくさんある。
横で吹奏楽の人たちが演奏している。
マアコちゃんがうっすらと笑いながら
「コンサートの前に自分たちのCDはかけないでほしいよね。がっかりするから」
と言う。
「それは、下手だっていうこと?」
私がショックを受けて訊くと、マアコちゃんはうっすら笑ったまま、無言でカウンターに向かう。やっぱりマアコちゃんはすごいひとなのだ。私、なんだか感心しながら追いかける。
けっきょく何を買って食べたかわからない。
部屋に戻ると、なぜか次の日になっている。
連絡なしに一晩、留守にしてしまったことになる。
おそるおそる入っていくと、作業台の上に紙やら定規やら散らかったまま、台所で真澄さんが新聞紙をかぶって寝ている。徹夜したらしい。
申し訳なさに泣きそうになっていると、真澄さんが起き上がって
「おかえり。心配したよ」
と淡々と言う。
その口調から、どうしようもなく傷ついていることがわかって、私はとほうにくれる。
真澄さんは目を合わせてくれないまま、尋ねる。
「何かおいしいもの食べた?」
けっきょく何も食べていなかった。