第73話

文字数 726文字

 堤を自転車で走る。
 右は広い川。向こう岸が見えないくらい広い。
 左は町。

 ほこりは立たず、ただ飛ばしていく。忘れ物を取りに帰るところだ。
 私は白いシャツを着ているらしい。
 空き家のような家にたどり着き、忘れ物を探す。小さな絵の具のセットらしい。自宅だと思っているけれど、あんな家に住んだことはない。
 私の好きな縦桟(たてさん)の引き戸。

 千代紙を貼った豆箪笥の引き出しを開けたら、あった。手のひらに収まるくらいの小さな絵の具のセット。美味しそう、と思う。
 本当に絵の具のセットなのだろうか。そういう形のチョコレートのチューブなのかもしれない。
 食べるのはがまんして、いそいで自転車で取って返す。ユウコ先生のお絵かき教室に行くつもりなのだ。

 それが、近道をしようとして、コンビナートの入り組んだ隘路(あいろ)に迷いこんでしまう。ほらね、だから小賢しいことをしなきゃよかったのだ。
 とほうにくれながら、巨大な灰色のさまざまに複雑なタンクやチューブの形に、なんとなく感心している。

 自転車はいつのまにかなくなって、歩いている。
 誰かに笑顔でこっちこっち、と招かれ、あっさりと着く。
 たたきから上がった奥の間で、ユウコ先生がお絵かき教室をしている。はず。
 見たこともない建物なのに、安心している。

 履き物を脱いで見ると、もとは赤かったらしい革のサンダルで、ひどく履き古してよれよれ。こんなのを履いてるから道に迷うわけだ。
 そのサンダルをしまおうとしたら、

 さっきの小さな千代紙の豆箪笥だから、入らない。

 そのときふと、かんじんの絵の具セットを持ってきていないことに気づく。何をしに来たんだろう。
 けれども誰も私を責めず、笑顔で、早く早く、こっちと言っている。

 誰の顔もわからない。

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