第86話

文字数 1,093文字

 空き家というか、空き地というか、人の住んでいなく、乾いた床とカーテンの残りに風が吹いているような、そういう場所に誰かを説得して連れてきて住まわせる、というゲームの、テレビ番組。
 私は、弟を説得しなくてはならない。

 住宅街の長い坂を駅に向かって降りていきながら、何も知らない弟を説得しなくてはならないのだけれど、弟はゆっくり歩いていて、ずっと後ろになってしまい、もう姿も見えない。
 私もゲームはそっちのけで、弟が心配になり、立ち止まって物陰に隠れて待っている。なにも隠れなくてもいいのだけど、そうしたほうが追いついてきてくれそうな気がするのだ。
 小学校のときはそうだった。

 説得は手紙でする。
 会っても直談判するのでなく、もう手紙を書いてあって、それを手渡し、相手(私の場合は弟)が読んでどう反応するかを隠し撮りするわけなのだ。
 ルールとはいえ、なんともうしろめたい。うしろめたいから、私はしぜん優しくなって、弟をじっと待っている。

 坂は、無人の、知らないような坂から、大塚駅前の南口広場へつながっている。
 咲きかけか咲き終わりの哀しいバラが、ちらほら。黄色が多い。

 弟が来ないので、いたたまれなくて、とうとう迎えに行く。
 坂を戻りだしたところで、どら声で泣きながら降りてくるテキヤ風の男の人に会う。白い薄汚れたネルシャツに、腹巻き。下駄履き。弟ではない。
 でも気の毒になって、どうしたんですかと声をかけてしまうと、目をぎろぎろさせながら、取り立てに失敗した話をしてくれる。

 借金している面々の中に、青年座、と聞こえて聞き捨てならず、百万、とも聞こえて、よく聞くと五百万だ。
 ただ、取り損なった金額の総額が五百万なので、青年座さんの分は数十万のようだ。
 ほっとすると同時に、それっぱかりのお金を青年座さんが返せないのにも驚く。ひょっとしたら騙されているのはこのテキヤ氏のほうなのかもしれない。だとしたら気の毒でならない。

 テキヤ氏としゃべっているうちに坂を降りきり、大塚駅に着く。人がそれなりに多い。
 駅の手前で、きゅうに深い植え込みをまわりこんで、そこだけ大塚駅でない。
 弟でないテキヤ氏をどうしたらいいのだろうか。

 ふと、これが私に仕掛けられたドッキリカメラで、いまのを隠し撮りされていたらしいと思い至る。何のことはない、騙されていたのは私だ。
 テキヤ氏が人混みに消えていくのを、ぼうぜんと見送る。

 《神戸屋ベーカリー》の明るいショーケースに、くだものを乗せたさまざまな菓子パンが並ぶ、いつもの大塚駅南口だ。
 けっきょく弟とは会えない。

 あの空き物件には、たぶんまだ風が吹いている。

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