第99話
文字数 1,544文字
五日ぶりに夢。
『嵐が丘』の夢を見ている、と思っているけれど、嵐が丘は読んだことがないし、以下の夢も明らかに関係がない。
けわしい坂のひじょうに多く、それがみな階段になった町。
空に電線が張りめぐらされている。
一つの坂の上から向こうを望むと、固まった家々を越えて青空が広がっている。その空がいかにも色が薄く、心もとない。
私は一つの家を出て、一つの階段を下りるところらしい。
背にした家は私の家ではなく、私の家はこの町にない。
急勾配の階段の片側はよくあるブロック塀で、もう片側はあけはなされ、階段の下に立つと下りてくる私が見える。
下りる私と見ている私、どちらも本物らしくない。
私はあぶなげなく下りてきて、やはりこの町に慣れているふうでもある。
突然、頭の中に呪詛に似た声が響き、
それは背後の家の中からレースのカーテン越しに私を見送っている奥さんの声らしい。
泥棒猫、と聞こえて、どうやら私はその奥さんのご亭主と訳ありならしく、そのわりには当のご亭主の顔が少しも浮かばないのだけれど、かと言って、身に覚えがありませぬといった反感が起きるわけでもなく、たんにその奥さんのどす黒い悪意にうんざりしているのは、見送る奥さんもまた私自身らしいのだ。
とはいえ、
奥さんがレースのカーテンを引きちぎるようにして開け、はきだし窓から出てきて私を追いかけはじめてからは、彼女は私ではなくなる。
異様な激しさで彼女の悪意が火の手のように迫ってきて、怖いよりはひたすら醜く、うっとうしい。
ブロック塀の、少し湿って緑がかった灰色になった坂を逃げる。
私の服を返せと聞こえて、私が盗んだのは彼女のご亭主ではなく服のようでもあり、両方のようでもあり、にもかかわらず私になんの反省も起きないのは、どちらでもないのかもしれない。
(その服からして何のことかあいまいで、もちろん私は何か着ているのだけど、何なのかはわからない、というところも、ご亭主の件と似ている。)
奥さんは爪を長く伸ばしていて、あれにつかまれたら痛そうだと思うから、こちらも真剣になって逃げるのだけれど、差はちぢまるばかりだ。
とうとうすぐ後ろまで来るので、私はもう必死でよその家々の屋根づたいだか塀づたいだかに逃げ、しまいに電線を渡りはじめると、奥さんもまた塀づたいにみごとに走ってきて電線にかかる。
その電線というのがひどく太く黒々して、地下鉄の路線図のように曲がりくねってからみあっていて、すきまを飛んですり抜ければわけなく逃げられるはずなのに、驚いたことに、すり抜けられない。
ぼうぜんと電線の上にしゃがんでいると、奥さんの手が首筋に伸びてきて、つかまれそうになる。
あっと思って心臓がばくばくしながら、
すうっと目覚める。
目覚めてもしばらくばくばくしている。
そうして、私がこちら側へ抜けてしまって、見失ってぼうぜんとしている奥さんの姿を、湿った塀の下から見上げる。
奥さんはさっきまでの印象とちがって、若くなくもない。つまり、やや若い。
ほっそりとして、黒髪を長く垂らし、悲しそうにあたりを見回している。七十年代に流行ったような大柄のマーブル模様のワンピースを着て、太い黒のサッシュベルトをしめ、髪と裾をわずかに風になびかせながら、ブロック塀の上にすっくと立っている。
その姿を見て初めて、私の心に、彼女を気の毒に思うようなすまないような感情がわき起こるのだけれど、
それも小さなつむじ風のような一瞬のことで、すでに私は現実の側にいて、薄明るい朝五時のベッドに横たわっている。
その町に、奥さんと私と、
奥さんがしきりに私を罵るのにあいづちを打っていた別の奥さん以外、
誰もいない。
※全文、ほぼ起きてすぐ書いたメモのままです。
『嵐が丘』の夢を見ている、と思っているけれど、嵐が丘は読んだことがないし、以下の夢も明らかに関係がない。
けわしい坂のひじょうに多く、それがみな階段になった町。
空に電線が張りめぐらされている。
一つの坂の上から向こうを望むと、固まった家々を越えて青空が広がっている。その空がいかにも色が薄く、心もとない。
私は一つの家を出て、一つの階段を下りるところらしい。
背にした家は私の家ではなく、私の家はこの町にない。
急勾配の階段の片側はよくあるブロック塀で、もう片側はあけはなされ、階段の下に立つと下りてくる私が見える。
下りる私と見ている私、どちらも本物らしくない。
私はあぶなげなく下りてきて、やはりこの町に慣れているふうでもある。
突然、頭の中に呪詛に似た声が響き、
それは背後の家の中からレースのカーテン越しに私を見送っている奥さんの声らしい。
泥棒猫、と聞こえて、どうやら私はその奥さんのご亭主と訳ありならしく、そのわりには当のご亭主の顔が少しも浮かばないのだけれど、かと言って、身に覚えがありませぬといった反感が起きるわけでもなく、たんにその奥さんのどす黒い悪意にうんざりしているのは、見送る奥さんもまた私自身らしいのだ。
とはいえ、
奥さんがレースのカーテンを引きちぎるようにして開け、はきだし窓から出てきて私を追いかけはじめてからは、彼女は私ではなくなる。
異様な激しさで彼女の悪意が火の手のように迫ってきて、怖いよりはひたすら醜く、うっとうしい。
ブロック塀の、少し湿って緑がかった灰色になった坂を逃げる。
私の服を返せと聞こえて、私が盗んだのは彼女のご亭主ではなく服のようでもあり、両方のようでもあり、にもかかわらず私になんの反省も起きないのは、どちらでもないのかもしれない。
(その服からして何のことかあいまいで、もちろん私は何か着ているのだけど、何なのかはわからない、というところも、ご亭主の件と似ている。)
奥さんは爪を長く伸ばしていて、あれにつかまれたら痛そうだと思うから、こちらも真剣になって逃げるのだけれど、差はちぢまるばかりだ。
とうとうすぐ後ろまで来るので、私はもう必死でよその家々の屋根づたいだか塀づたいだかに逃げ、しまいに電線を渡りはじめると、奥さんもまた塀づたいにみごとに走ってきて電線にかかる。
その電線というのがひどく太く黒々して、地下鉄の路線図のように曲がりくねってからみあっていて、すきまを飛んですり抜ければわけなく逃げられるはずなのに、驚いたことに、すり抜けられない。
ぼうぜんと電線の上にしゃがんでいると、奥さんの手が首筋に伸びてきて、つかまれそうになる。
あっと思って心臓がばくばくしながら、
すうっと目覚める。
目覚めてもしばらくばくばくしている。
そうして、私がこちら側へ抜けてしまって、見失ってぼうぜんとしている奥さんの姿を、湿った塀の下から見上げる。
奥さんはさっきまでの印象とちがって、若くなくもない。つまり、やや若い。
ほっそりとして、黒髪を長く垂らし、悲しそうにあたりを見回している。七十年代に流行ったような大柄のマーブル模様のワンピースを着て、太い黒のサッシュベルトをしめ、髪と裾をわずかに風になびかせながら、ブロック塀の上にすっくと立っている。
その姿を見て初めて、私の心に、彼女を気の毒に思うようなすまないような感情がわき起こるのだけれど、
それも小さなつむじ風のような一瞬のことで、すでに私は現実の側にいて、薄明るい朝五時のベッドに横たわっている。
その町に、奥さんと私と、
奥さんがしきりに私を罵るのにあいづちを打っていた別の奥さん以外、
誰もいない。
※全文、ほぼ起きてすぐ書いたメモのままです。