第122話

文字数 675文字

 家に帰りたくなくてさまよう。

 ある街角を大きく曲がって、電車の駅の地下にあるイートインのパン屋さんに行こうとしている。このパン屋さんには幾度も行っていて、行き方も覚えているけれど、夢の中にしかない。

 けっきょくそのベーカリーカフェには行けず、たどり着いたのは白や黒のコードののたうつライブハウスのような所で、そのコードを踏み越えて奥へ進むと、ずっと地下だと思っていたのに、地上十何階であるらしい。横長の窓にぐるりと囲まれていて、明るい。
 外には灰色がかった高層ビル街が、遠く小さく見える。

 ガラスのはまった食器棚を回りこんでいったら、ふいに男の人と鉢合わせして、おたがい驚く。もとの夫だったので、かるく失望する。
 けれどもおたがい文句も言わず、その食器棚まわりを片づける。

 カートに荷物を固定する用の青いコードが数本、トマトケチャップにまみれていて、私はそれをごみ箱ではなく、電子レンジに押しこむ。夫も手伝ってくれて、二人でぎゅうぎゅう押しこむ。入りきらなくて、電子レンジの戸からはみ出しているけれど、かまわないらしい。そうして、

 私、悲しいときにはいつもこうするんだ、

 と誰に言うともなく言うと、夫は黙って聞いている。

 そうやってコードを片づけて、二人とも帰る。
 夫が先に帰っていく背中を見送ってから、私は、いまいるこの部屋以外のどこに帰ろうとしているのだろうと気づく。

 部屋にはほかに家具もなく、夫と二人で住み始めたときのように、あるいは引き払う直前のように、食卓も寝具もない。
 ただ、灰色のおもちゃのような高層ビル街が、遠く小さく見えている。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み