第106話

文字数 1,701文字

 ひさしぶりに長い夢を見た。十七日ぶり。
 よく見るバスの夢。実家の近所だと思っているけれど、そんな長距離バスはない。

 複雑にたてこんだ美しい街。壁が白や紅殻(ベンガラ)色に塗られている。でも異国ではなく、東京の下町の、古くからあるよろず屋のような店構えがあったり。
 バスを乗り継いで家に帰らなくてはならない。これも、よく見る夢。

 長い坂を回りこむようにして循環するバスで(そんなバスはない)、いつにもまして街並みが美しい。雨上がりで濡れているらしく、すべての色がさえざえとあざやかだ、並木の葉の一枚一枚まで。
 私自身、悲しくもなく、寂しくもなく、うっとりとしていて、ただ、バスでここまで来たものの帰りの便が見つからなくて、心細い。

 私は若いらしく、ふんわりとしたスカートをはいている。色はたぶん、つやのあるブルーグレー。こないだ買おうとしてあきらめた一着に似ている。

 バスの終点らしきバス溜まりに、何台か停まっていて、あ、と思った瞬間、乗るはずだったバスが出ていく。
 追いかけて少し走るけれど、まにあわない。
 バスの額に行く先の地名が黒くはっきりと表示されていて、たしかに読み、それだと思ったはずなのに、何の地名かわからない。

 ちょっととほうにくれてあたりを見まわす。
 壁づたいに階段があり、壁にはりついたような細い段々で、手すりはあるものの、いかにも幅がせまくて危ない。それでも昇りはじめると、途中でどんどんせまくなって、最後にそこをくぐるはずの入り口はきゅうに暗く、なぜそこをくぐろうと思ったかわからない。足もともぐらぐらして、板が落ちそうで危ない。
 気がつくと、二人の人がはらはらと見守ってくれていて、私があきらめて降りてくるのでほっとしているらしい。
 若葉が光る。

 その二人のうちの一人の男性が(もう一人は女性のようだったけれどどこかへ行ってしまった)、ミムラさんどうしたの、乗せていってあげるよという。
 丸顔に、口もとの微笑みまではっきり見えて、あ、あの方だと思うけれど、お名前が思い出せない。助手のときの研究室の副主任の先生だ。
 安心して、ありがとうございますと言って、助手席に乗せてもらう。
 町はあいかわらず明るい。

 運転しながら彼は、こうして車に乗せて危ない目にあわせる男もいるから気をつけるんだよ、などと淡々と言う。吉田鋼太郎が黒木瞳とそうしてスキャンダルが発覚して、いま大変だなどと言う。初耳。
 でもその運転してくれている彼の、どうしてもお名前が思い出せない。
 そのまましばらく走って、いろいろの話をする。ひさしぶりなので話が尽きない。けれども内容がひとつも思い出せない。

 ふっと、大きな建物のピロティらしきところに入りこみ、そのまま停まって、先生は黙っている。
 もう着いたんですかと訊くと、うん、僕はもう着いた、と言う。
 少し考えて、そうかここがきっと先生のお家なので、私はここまでで降ろしてもらうのだとわかり、お礼を言って降りる。気をつけてね、などと言われる。
 体はがっしりしているのに、優しい細やかな言葉づかいが、いかにも先生らしい。

 でもまだお名前が思い出せず、歩きながら――歩き出すときゅうに大通りだったはずの街並みが実家の近所の団地に変わり、ひどく静かで、道ばたにクローバーなど生えている――いっしょけんめい頭をしぼってお名前を思い出そうとする。

 まるいお顔。

 オオなんとか――

 そうだオオサワ先生、オオサワ先生だ。やだなあ、どうして思い出せなかったんだろう。
 その、露に濡れたクローバーを踏んで歩きながら、さらに思い出す。

 オオサワ先生は亡くなっているはずだ。

 訃報を訊き、あのお元気だった先生がと衝撃を受けた記憶が。
 その記憶のほうがまちがいなのか。

 ともあれ私は無事に帰ってきたらしい。団地の駐車場を抜け、通りを渡れば小さな公園。その並びの奥に父母の家がある。
 あたりはしんとして誰もいない。


※文中の吉田鋼太郎さんと黒木瞳さんはもちろん私の夢の中の吉田鋼太郎さんと黒木瞳さんで、現実の吉田鋼太郎さんと黒木瞳さんとは関係ありません。
※大澤吉博先生は、2005年に亡くなりました。

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