目覚めてみれば 第1話

文字数 4,038文字

 よく晴れた青い空に雲はなく、爽やかな風が吹いている。
 日和に恵まれ正教徒第一病院で行われる定例の献血作業は滞りなく定量を確保することができた。保冷容器一杯に詰められたパック入り血液を目にしてフレア・ランドールは安堵に胸をなでおろした。
 毎回、ローズのために献血に訪れる者はよほどの荒天にならない限り、告知がなくともどこからともなく集まってくる。量と数の心配はないのだが、人が集まれば騒動が起きる可能性も増えてくる。アクシール・ローズの献血会場で喧嘩騒ぎや犯罪などあってはならない。そのためフレアが警備を兼ねて目を光らせている。彼女が目を光らせて騒ぎの芽をいち早く見つけ出し摘み取らなければならないのだが、幸いこれまでは軽い言い争いまでで留まっている。
 フレアは保冷容器を抱え上げ、玄関口を抜け病院へと入っていった。面倒だが鉄馬車は裏口の車止めに置いてある。そのため来院者が行き交うロビーを抜け、奥にある通用口から裏口へと向かう必要がある。手間だが、病院の周囲を回り裏口に行くよりは遥かにましだ。
 相変わらずの人の多さだが、その中を縫うように奥へと向かう。
「そこを何とか頼むよ先生……他にできることはないのかよ!」
 不意に男の大きな声が聞こえた。
 フレアはその声の方向へと顔を向けた。そこにいたのは白衣を纏った小太りの医師とエリオットの店にいそうな髪を剃り上げた筋肉質の男だ。医師は困り顔で、男はどこか悲し気な目をしている。医師とは言葉を交わした事はないが、何度か目にしてその度に挨拶をしている。話相手の男の横顔にはやはり見覚えがあった。エリオットの店にいそうなというより、実際にいる男だ。いつもは店内に入ってすぐの位置で現れた客の応対をしている。確かハスキー・レオニーという名の男で所謂門番、案内係的な存在の男だ。フレアも日常的にエリオットへの取次を頼んでいる。
 今日は非番なのかもしれないがこんなところで何をしているのか。これ以上言葉が白熱すれば警備員が駆けつけることになりかねないだろう。現にロビーにいる何人かがハスキーの存在に気づき、警戒しつつ様子を眺めている。フレアは保冷容器を抱えたまま二人に近づいていった。
「あなた、こんなところで何しているの?」フレアはハスキーに声をかけた。
「……あっ、お嬢さん。こんにちは」一瞬で男の顔色が変わる。
 店外でその呼び方は避けて欲しかったが、ハスキーで間違いないようだ。このやり取りで皆が警戒を緩めた。ここは新市街で現れた小柄な少女がフレアである事は皆が知っていた。彼女が声をかければ強面の男も頭を下げる。フレアが現れたならもめ事に発展することはないだろうと判断してのことだろう。
「何があったかは知らないけど、こんなところで大声出しちゃだめでしょう」とフレア。
「はい……」ハスキーは気まずそうに頭を下げる。
「他の場所でお話しましょ」
「はい」
「先生もいいですか?」フレアは医師にも目をやる。
「まぁ、かまわないが……」

「騒ぎを未然に回避したのは褒めてあげましょう」ローズの冷めた口調が最上階の居間に響く。
「でも、それはわたしではなくお医者様に任せた方がよかったんじゃなくって」
「場所を移動してそれで終わりってわけにもいきませんでいたし」
 フレアはローズの視線を受けきれず目をそらした。
「それでも無駄な期待を抱かせるのもよくないわ。何度も言っているように魔法は万能じゃないし、わたしに人を癒す力はない。わたしが得意としているのは破壊なのよ」
「それは彼らにも言ってはいるんですが……」
 だが、ローズを頼ってくる者は後を絶たない。ローズに頼めば何とかなるかもしれないと相談にやって来る。ローズもローズでそれを何とかしてしまうから、余計に頼りにされることになる。もちろん誰もが無償でというわけにはいかないが。
 ハスラーが正教徒第一病院にやって来たのはそこに入院している妹メローのためだ。この病院への入院を手配をしたのもハスラー自身である。数日前にそのメロー・レオニーが旧市街の宿の一室で倒れていたのが発見され、一時そちらの病院に収容されることとなった。だが、経済的な面から彼女をこちらへと移すこととなった。
 ハスキーが今日やってきたのは妹の容態についての相談のためだ。メローは発見されて以降眠ったままとなっている。そんな彼女から目立った異常が見つからず、医師としても手の打ちようもないからだ。医師たちも本意ではないだろうが、経過観察の他何も手立てがないのも実情らしい。
 事の発端は数日前まで遡る。メロー・レオニーは客に呼ばれて旧市街の宿に出向いた。そこで何があったか不明ではあるが一夜明けて、その部屋へ入った宿の掃除人は床に倒れているメローを発見した。その部屋に泊まっていた客は持ち物を残したまま姿を消し、部屋にはメロー一人が取り残されていた。彼女の体に外傷は見られないが、以来眠ったまま目覚めないでいる。
「夜に客の元へ呼ばれて出向く。客と二人だけで直に接する。それだけでも十分に危険よね。たまに殺されることもある。あなたもたまに聞いたことがあるでしょ」
 ローズは溜息をついた。
「だから、そちらは止めさせて彼は自分が勤めている店に誘っていたようですが、そんな矢先の出来事だったようです」とフレア。
「……あまりいい解決策と思えないけど……」腕を組みため息をつく。「エリオットさんが持っている他の店よりはいくらかましね、あの店は」
 軽く首を横に振り再度溜息をつく。
「……まぁ、見るだけは見ると伝えて」とローズ。「けど、わたしでも役には立たないことはたくさんあることも伝えてね。重要なことだから」
「はい……ありがとうございます」
「それとあなたも話の流れで安請け合いはしないように」
「……はい」

 ローズは塔からスイサイダルパレスに連絡を入れ、エリオットにハスキーという男を通話口に呼び出すように頼んだが、それ自体でひどく手間を取り普通にフレアにやらせればよかったと後悔することになった。
 まず、ローズからの直接の通話で部下の名が出るなど珍しいことで、そこから説明が必要となった。要件が部下の粗相などではことに安堵してようやくハスラーを呼び出しの段取りとなった。
 ハスラー自身もローズが妹のために動いてくれるなど思ってもおらず、たまたま会ったフレアが自分の愚痴を聞いてくれた程度にしか考えてはいなかったようだ。気が向けば何でもするそれがローズだ。ローズはそれを説明し、エリオットにこちらは特に気を悪くしていないことを伝え、ハスラーをすぐに正教徒第一病院に向かわせるよう指示を出した。
 速やかとは言えないエリオットとの通話を済ませるとローズは馬車を使い、正教徒第一病院に向かった。彼女の鉄馬車が病院前の車止めに到着すると大柄の男らしき人影が駆け寄ってきた。その人影が気は素早く客車の昇降口に回り込んだ。黒いウエストコートに赤いクラバットをしめた男。二の腕についた筋肉のためにウエストコートの袖が張り詰めている。
「こんばんは、お疲れ様です!」男はローズに向かい深々と頭を下げた。この男がハスラーだろう。剃り上げた頭と体つきで意識を覗くまでもなく察することができる、
「こんばんは、ハスラーさん。一度深呼吸をして気持ちを落ち着けなさい」
 ハスラーは指示に従い深呼吸を繰り返した。
 ウエストコートの胸が張り詰めて緩むのを三回ほど繰り返された。
「いいでしょう、今からでは建物の中に入るのはもう無理のようですから、ここでお話を聞くことにしましょうか」
「はい、何からお話ししましょうか」とハスラー。
「フレアにも話したでしょうけど、あなたが見聞きしたこと知っていることをもう一度お願いします」
「はい」覚悟が決まったかのようにハスラーから緊張が消えた。
「一昨日の昼前のことでした。玄関の扉を激しく叩く音で目を覚まし、戸口に出てみると警備隊の奴らが二人立っていました。何の用かと聞いてみれば、その日の朝に旧市街の宿で妹のメローが倒れているのが発見されたとのことで、何か心当たりはないかと俺のところにやって来たようなんです」
「妹さんから聞いたわけでもないのに、えらく段取りのいいことね」
「それは……妹が仕事用の名刺を持っていたからのようです。それで店が特定できてそこから俺の名が浮かんで……らしいです」
「部屋の床に倒れているところをやってきた掃除係に発見されたと聞いているけど被害はなかったの?」とローズ。
「はい、それは幸いなことに、暴行も受けず、何も盗られず、ただ部屋に転がっていたとのことです」
「その点は幸運だったわね」
「はい」
 部屋や街路の倒れている女は大概暴行を受けているものが多い。ひどい場合は死んでいる場合もある。
「彼女を呼んだ男も消え失せていたって話だってけど」
「はい、妹を呼んだ男は荷物を散らかしたまま部屋を出てそのまま行方不明となっています。警備隊もそいつの行方を探すといってはいましたが、どこまで本気なのか」ハスラーは不満げにため息をついた。
 ハスラーはそいつが妹に危害を加えたと考えているようだ。それなら自分の荷物を放置して出ていったのか
「そいつは誰かに連れ去られて、妹さんは一緒にいてその騒ぎに巻き込まれたのとか」御者席で黙っていたフレアが口を挟んだ。
「それはそれで随分おとなしい誘拐犯ね。倒れている目撃者を放置して出て行くなんて」
「あぁ……」
「まぁ、妹さんに聞いてみるのが一番のようね」ローズは客車から上空へと舞い上がった。
「フレア」
「はい?」
「ハスラーさんをスイサイダルパレスまで馬車で送ってあげて」
「はい!」
「えっ⁉」
「だって、ハスラーさんあなたまだ仕事があるのに、帰る足がないでしょ、おとなしく乗っていきなさい」
「ありがとうございます」ハスラーは恐縮し、しきりに頭を下げる。
「じゃぁ、フレア後は頼んだわよ」
 ローズは病院の上空へと飛んでいった。
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