幽霊船 第1話

文字数 4,233文字

 青い空には雲一つ無く、柔らかな風が吹いている。眼下では穏やかに波打つ水面が陽光を受け輝いている。夜が明けて、アイル・オデータが望むコムン城塞の姿が戻って来た。昨日は酷い土砂降りで、吹き荒れる風により眼下に見える海原も白波を立て大荒れとなっていた。見張り台の改修が済んでいなければ、酷い雨漏りに陥り、屋根の下にあっても雨具を身につけなければならなかったに違いない。ずぶ濡れとなり体を壊した者も出ていたかもしれない。
 これも新しく城主となられたカシロ様の手早い采配の賜物か。素行に問題ありとの噂があったカシロ様が、この城塞の新しい城主としてやって来た時は皆どうなる事かと影で心配していたが、それは取り越し苦労に過ぎなかった。若いながらも実にうまく仕事をこなしておられる。
 カシロ様自身の言葉によると、友と過ごした砂漠での経験が生きているそうだ。確かにあそこで過ごすことを思えば、ここは観光地と変わらない。それにはオデータも同感だ。自分は彼ほどの危険地帯ではないにしろ出征はした経験はある。不快と不満の毎日だった。
 この城塞も以前は帝都の西端に位置して、哨戒と防衛の要衝として機能していたと聞いている。過酷を極めていたとされる任務も今は書庫の記録に収められた昔話だ。
 今は葡萄畑に囲まれた荘園も同然だ。オデータが所属するスリラン家騎士団が当地の警備隊と共に村を守る点は変わらないが、完全武装の騎兵隊が攻めて来ることもなく、大砲を備えた戦艦の来襲を見張るわけでもない。
 現在の任務は哨戒と訓練が主で、それに合わせて、農作業か家畜の世話をこなすことも多くなっている。似合わぬ野良着姿で畑や厩舎を駆け回る。それはどうにも性に合わない。大柄で筋肉質の体でだぶつく野良着を身に着ける自分は走り回る熊のように思えてどうにも気に入らない。
 そんなことだから、オデータにとっては城壁最上部の見張り台での任務の方がいい息抜きになる。無論、戦艦が攻めてくることがなくなったとしても、海賊行為を行う不審船は存在する。眼下の岸壁に近づきすぎて座礁する船もたまに見かける。そんな時は彼らが対応し、救助に当たらなければならない。たとえ、それであったとしても顔にたかる羽虫や牛に蹴られることを恐れて立ち回るよりは幾らかましだ。
「オデータ、やっぱりあの船おかしくないか」共に見張りについているバーナムからの声だ。
 オデータは彼が指差す方向に目をやった。その先にあるのは三本の帆柱を持つ帆船だ。出現時と変わらず舳先を城塞に向け直進してくる。そろそろ舵を切り進路を舳先左右のどちらかに向けなければ眼下の断崖に乗り上げ座礁することになる。
「ここから見る限りは甲板に人気はないな」とバーナム。
 オデータも彼から双眼鏡を借り、それを左右に細かく動かし、姿勢を変えているみるが、巨大な帆が邪魔をして見えるのは甲板の半分ほどだけだ。そこを動く船員の姿は一人も見られない。
 それからも帆船は相変わらず舳先を断崖に向け直進を続けた。潮流の影響か進路が東に寄ったが、あれでは僅かに衝突までの時間を遅らせるだけに過ぎない。最早、一刻の猶予もないだろう。
「このままだと座礁するぞ。甲板員は何をしているんだ」
「俺達には手の出しようもない。万一に備えて手配はしておこう」
「わかった。ここは任せておけ」
 バーナムはオデータに双眼鏡を渡し下降階段へと向かった。
 オデータは見張り台の外に吊るされた鐘の元へ走り、取りつけられた綱を引きそれを激しく打ち鳴らした。鐘の音は城塞のみならず、付近の集落まで届き集落の警備隊の注意も引くことは出来る。
 ひとしきり鐘を鳴らしオデータも見張り台から身体を乗り出し眼下を見下ろした。
舳先は更に東へと向いていたが、未だに甲板上に人影がないところを見るとそれは潮の流れの影響のようだ。奇跡が起これば、断崖への激突は避けられるかもしれない。あくまで、奇跡が起こればだ。
 帆船はオデータが祈る中、僅かに東に進路を変えつつ崖に向衝突に舳先を乗り上げた。

 南の沖からやって来た帆船はコムン城塞の東側の岩礁に舳先を乗り上げようやく停止した。城塞がある崖の上から様子を見たバーナムと数人によると帆船は岩礁に乗り上げ、僅かに右舷側に傾き停止しているという。それでも船員の動きは見られない。船内は既に無人なのか。それとも誰も船外へ出ることが出来ない状態かと思われる。崖を降りるのは手間ではあるが、救助が遅れて死人が出ては夢見が悪い。
 城塞の東側には断崖を降りる階段が設けられている。それを利用すれば直下にある海岸まで降りられる。小舟がやっと二艘程停め置けるような狭い砂州だ。便利な侵入口となりかねないため階段が設置されたのはつい最近の事だ。その作りはかなり簡素で誰もが使用することに躊躇する。基本的には崖に突き刺した鉄棒に木の板が載せてあるだけだ。とりあえず手摺はあり、踏み板もきちんと縛り付けられてはいるが、板の隙間から遥か下で砕ける波を目にして腰が引けるのも当たり前である。
 予定では下の砂浜に置いてある小舟で座礁している帆船へと接近し乗船する。生存者の有無を確かめ、負傷者がいたなら発煙筒を焚き、崖の上で待機している仲間に連絡をする。合図があれば、救助のため大型の船を差し向ける手筈となっている。当人たちが普通に歩ける状態ならば、階段へと案内し共に上へと昇っていく。
 遥か下で砕ける波を目の当たりにして、オデータは肌を粟立たせながらも同僚たちと無事に階段を降りて来た。狭い砂浜を踏みしめ大きく息をつく。崖に張り付く階段を見上げるとまた恐怖がぶり返してきた。瞬時に赤い肌が波打ち、悪寒が走る。
「皆、もう降りて来たな」
 まとわりつく悪寒を振り払うべくオデータは大きめの声で砂浜に立つ者たちに呼びかけた。
 オデータの問いかけに威勢よく返事を返す者、ただ頷く者といろいろだが概ね準備は良さそうだ。
「手早く済ませてしまおう。沖の様子と風が気になる」
 共にやって来たバーナムが沖に浮かぶ黒い雲を指差した。雲はいつの間に現れたのか、崖を降りる前はなかったはずだ。風の強さも風向きも海が荒れる時の兆候と一致している。
「そうだな。さっさと済ませよう」オデータは頷いた。
 一行は二艘の小舟に分乗して帆船へと接近した。幸い小舟は帆船の間近まで寄せることが出来た。過度に身体を濡らしては捜索どころではなくなってしまう。小舟は傍の岩礁に縄を使い縛り付け、彼らは持参した鉤爪を使い船体に取りつき昇っていく。甲板に立つと帆船は明らかに長い間放置されたままであることが見て取れた。防水のための油引きなどの手入れが施されていないためだろう、甲板は艶を失い、金具類は赤い錆で覆われている。帆布は張られたままにしてはほつれが若干目立つ程度ですんでいるようだ。足元には備品の箱が転がり中身の綱などが転がっている。
 全員が乗り込み甲板上を見回す。
「幽霊船というやつか」バーナムが呟いた。
 その言葉に軽く肩をすくめる。仲間が互いに顔を見合わせ不安そうに周囲を窺う。
「バーナム……」
「悪かった」バーナムは軽く手を上げ頭を下げた。
 幽霊船の話はオデータも聞いたことがある。海を無人で彷徨う古びた帆船でその船倉には魔物が巣食っているという。誰もが一度は耳にする怪談の一つだ。気味の悪い話ではあるがオデータは信じてはいない。
「三人ほど甲板に残り、後は分かれて船内の捜索を始めよう。明かりの準備を」とオデータ。  
 二手に分かれ、甲板の船首と船尾側の入り口から階段を降りていく。船内は少しかび臭くはあるが、それ以外は普通と変わらない。階段の先は広間となっていた。ランタンの光で浮かび上がったのは幾らかの作業机と整理棚、積み上げられた木箱の山だ。それらの上には埃が積もっている。船倉ではなく、職務室として使われていたのか。貨物船ではなさそうだ、ならば何のための船だったのか。 
 床に落ちていた紙の一枚を拾い上げてみる。
「外国語ですか」横から声が聞こえた。
「そのようだ」オデータは答えつつ記憶を呼び覚ます。
「ネブラシアの言葉のようだが……」オデータは言葉を詰まらせた。点々と知っている言葉はあるが、とても意味を理解するには程遠い。
 部屋の端で扉が見つかった。そこには厳めしく赤い文字で何やら書かれている。これはオデータにも読むことが出来た。
「整理整頓、使用後は必ず元に戻すように」
 扉を開けてみると中に入っていたのは水桶や箒などの掃除道具だ。単なる道具入れだ。皆の口から笑いがこぼれた。外国人でも受ける注意は同様のようだ。
 見つけた階段を下り下層へと向かう。そこは船倉を改装した更衣室のように見える。細長い整理棚が並び壁際には衣紋掛けが並び、そのいくつかには裾の長い上衣が掛けられている。この部屋のは両端に扉が見つかった。船首側は上層と同じ掃除道具入れだ。船尾側の扉には鍵が掛けられている。壁や物入れに鍵はないかと探してみたが、あるのは紙くずとがらくたばかりで鍵は見つからなかった。これまでの捜索で乗組員は見つかっていない。他にいるとすればこの扉の先だろう。 
「誰かいないか」扉を少し強めに叩いてみた。「コムン城塞からやって来た。誰かいるなら答えてくれ」ゆっくりとした口調でもう一度繰り返す。
 ややあって、背後から物音が聞こえた。足音のようだ。次第に大きくなり最後のは止まった。
「オデータさんは居ますか」と足音の主。
 何のことはない、上階からの使者だ。
「ここにいる。何の用だ」オデータは応じた。
「捜索に成果がなければ一時引き揚げるようにしてはどうかとバーナムさんから伝言です」大声のため一度息をつく。
「波も大きくなってきているようです」
「そうか……すぐに引き揚げると伝えてくれ」とオデータ。
「了解です」
 声と共に足音は遠ざかっていった。
「俺達も引き揚げることに……」何か物音に引かれオデータはふり返った。後ろにあるのは閉ざされた扉だ。
「何か聞こえなかったか?」
「いいえ、特に何も……」同行した仲間の一人が答えた。
 他の二人も同意の証に首を縦に振る。全員で耳を澄ませるが物音はない。何か引っかかるがオデータは気のせいと自分を納得させた。
「引き揚げることにしよう。海が荒れちゃあ俺達の救助隊が出るはめになる」
 全員、オデータの言葉に頷き、踵を返し船外に出るため階段へと向かった。
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