魔導師は行方不明 第1話

文字数 3,323文字

 夜明けだ。東の水平線より現れた太陽が旧市街の港を照らし出す。それは黒一色だった倉庫街に陰影を与え石畳の街路を赤く染める。悪くない、この光景はむしろ気に入っている。普段のダマンスキーならためらうことなくそう言えたが、今朝はとてもそんな気分ではなかった。目の高さで飛び込んでくる陽光が目に染みてまともに目を開けていられない。昨夜調子に乗って飲み続けたのが原因だ。家を出る時に湯冷ましの水を大量に飲んできたのだがあまり効いていないようだ。
 職場がある桟橋に向かいとぼとぼと歩いていると前方に黒い塊が転がっているのが目についた。猫、イタチ、犬と考えてみるが遥かに大きく動きがない。右手を顔の前にかざし目を凝らす。人だ、黒い服の男だろうか、仰向けで寝転がっている。朝日に輝いているのは衣服に施された刺繍のようだ。それなりの裕福な人物に違いない。
 ダマンスキーはまたかとため息をついた。自分も人のことを言えたものではないが、限度がわからず飲み過ぎて前後不覚となり追いはぎに遭う者がいる。喧嘩となりぶちのめされることもある。そんな者たちが行きつく先は夜に人気が絶えるこの港の倉庫街なのだ。夜にうろつく場所ではない。
 ダマンスキーも頭や口から血を流している者を放置はできず、何度か介抱したことがある。一度、土産片手に礼を言いにやって来た者がいたが、ダマンスキーとしては二度と手間を掛けるなと言ってやりたかった。
 更に近づく。男がずぶ濡れなのがわかる。衣服からしみ出した水溜まりの上に横たわっている。岸壁から海に飛び込んだのか、突き落とされたのか。とりあえず、陸には上がってこられたようだ。
 男の傍らまで行き、ダマンスキーの足は凍りついた。息が詰まる。えらいものを見つけてしまった。水浸しの男はダマンスキーでもはっきりとわかるほどにしっかりと死んでいる。陸に打ち上げられているが立派な溺死体だ。両眼を大きく見開き、口も絶叫のまま固まっている。凝った刺繡が入った服には何か所も穴が開きそこから無残な切り傷が覗いている。片手で握りしめているのは柄と刀身に凝った飾りが施された真っ黒の剣だ。よく手から離れなかったものだ。
  ダマンスキーは不意に剣に気を取られ手を伸ばした。あと拳一つで漆黒の剣に手が触れる、その時彼は強い視線を感じた。その先に顔を向けるとずぶ濡れの男と目が合った。真剣な眼差しでこちらを見つめている。異様なことにさっきとはまるで表情が違っている。慌てて手を引き後ずさる。勢い余って尻もちをついた。腰が抜け無理やり尻と腕で後ずさる。ややあって腰を持ち直し立ち上がることが出来たダマンスキーは一心に駆け出した。後ろは振り向かない。もう男の姿は見たくなかったからだ。 

 昨夜は穏やかだった。夜勤の担当だったダニエル・アーランドとシャーリー・ジェロダンは朝一番の茶を飲んでいた。夜中前に喧嘩っ早い貴族の酔いを醒ますために留置場に押し込んでからは、通話機の鐘が鳴らないように見張っているだけで済んだ。湾岸中央署としては非常に珍しい事だ。他の同僚も暇つぶしに苦労してカードを始めていた。賭けられたのは金の代わりに焼き菓子だ。それぐらいの分別は心得ている。夜が明けて日勤組が現れるのを待つだけとなり、アーランドは署を出てから朝食のために寄る店を考えていた。
「このまますんなり帰れるといいが、面倒な事件が起こることはないよな」離れた席に座っていた同僚のキャルキャが呟き煙草に火をつけた。
 アーランドは思わず顔をしかめた。彼は言霊を否定できないでいた。うかつに発せられた言葉が下働きの天使の耳に入り、神に聞き入れられては目も当てられない。アーランドは物事の皮肉な展開というのはそんな一連の作用ではないかと考えている。だから、彼は迂闊な言葉は口にしないようにしている。ただでさえ忙しいお方にやっつけ仕事で願いをかなえられてはたまらない。
 案の定キャルキャの煙草の火が消えないうちに通話機の鐘が鳴った。
「……港で溺死体が見つかったとさ」
 キャルキャは煙草を灰皿でもみつぶしつつ呟いた。


 他殺体が発見されたとの報を受け、アーランドとジェロダンは港へ駆け付けた。海に面した現場では先行して到着した制服隊士達が周辺を確保し野次馬の整理に当たっていた。制服隊士の囲みに興味をそそられ通行人が中を覗いていく。だが、留まる者は少ない。背中で手を組み威圧的な視線を送る隊士達の力も大きいが、それが無くとも近づくことは少ないだろう。うかつに遺体を目にした者は口元を押さえる、青ざめるなどして足早に去っていく。事の成り行きに興味がある者は遠巻きに様子を伺っている。
 ジェロダンが先に歩きアーランドが後に続く。二人は囲みの輪を担当している隊士の一人に身分証を提示し、労いの言葉をかけ中に入っていく。ジェロダンは無言で遺体の傍で腰を折りのぞき込む。海水で傷んだ遺体を見下ろす。肩までの金髪、小柄で若干ふくよかな中年女性だ。食堂の主人の方が似合っていそうだが、油断してはいけない。大柄な男でも素手でねじ伏せる力を持っている。
 彼女は懐から伸縮式の棒を取り出した。伸ばした棒を遺体の衣服の切れ目に深く差し込み広げて中を覗く。そこからふやけてた皮膚と血の気を失った傷、さらに内部組織が目に入る。彼女の横で覗き込んでいたアーランドは思わず手で口元を押さえそうになった。黒く短い髪で背が高く、まさに偉丈夫を絵に描いたような屈強な体つきの男だ。体術にはそこそこ自信はあるが、ひどい状態の遺体には慣れることは出来ない。  
 ジェロダンはアーランドの反応に最初こそ同情したが、それ以後は無関心だ。ただ「ここでは吐くな」と注意を受けただけだ。
 ジェロダンはアーランドのことなどかまわず自分の興味で遺体を見聞していく。少しして通信イヤリングに反応があった。キャルキャの声だ。彼とクレトは第一発見者の元に出向いていた。第一発見者はダマンスキー・ミアといい彼は出勤途中にこの傷だらけの遺体を発見した。遺体を目にしてひどく動揺したようだ。それも無理もない。アーランドも同様だ。それでも、彼は気丈に勤務先からこちらに情報を上げてくれた。
「彼も周囲に不審者は見かけていないようだ。見つけた時にはその遺体しかなかったらしい」とキャルキャの声。
 ジェロダンは遺体の口と目を閉じ、立ち上がった。これで遺体の顔は少し穏やかに見えるようになった。長身で銀色の長い髪に乳白色の肌、この男は生きている時なら十分に伊達男で通っただろう。身に着けている魔導着と見られる。手にした漆黒の剣と共に既製品ではない。これらは彼が裕福だったことを示している。その方面から探ればいずれ身元も知れることだろう。
「彼はどうしてここにいるの」ジェロダンが呟いた。
「それは彼を手に掛けた奴らが捨てていった」とアーランド。
 奴らなのは動かなくなった遺体を一人では運べそうにないからだ。それに複数の傷がある。
「これだけ濡れているってことは彼は一度海に捨てられた。その彼をまた引き上げたのはどうして?」
「とどめを刺す前に逃げられたのでは、それで必要な用事を済ませることが出来なかった」
「用事って」
「何かを取り上げるか調べる必要がありそのため波止場に引き上げた。まだここにいるのは ミアさんが現れたから」
「ミアさんは誰も見ていないと言っているわ」
「あぁ……それは……」
 黙り込むアーランドをジェロダンは冷めた目で見上げた。
「確かに用があったのは確かでしょうね。沈めれば黙っていられるのをわざわざ引き上げたんだから」眉間にしわを寄せる。「あなたの言ったように死ぬ間際に逃げられた……それでやむなく」
 物音で思考は打ち切られた。囲いが開き馬車がゆっくりと停止する。彼を搬送するための馬車が到着したようだ。彼はこれから最寄りの病院へ搬送され、そこで医師の検死を受けることになっている。
 二人が馬車に付き添い、署に戻りもろもろの引継ぎを済ませ家路についたのは昼の鐘が鳴った頃だった。
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