誰がわたしを追いかける 第1話

文字数 3,981文字

「クレマ様、これが新しいあなたのお顔です。あなたの名前はウオモ・バッテリです。これが身分証明書……ご不便かとは思いますが、しばらくはこの部屋からの外へは出ないでください。それから……」クレマ・デ・ファジョーレの脳裏にまた従者のボロ・バンビーノの声が蘇ってきた。

 身を潜めての暮らしはもう一年以上になる。国元では住処を転々とし、反攻の機会を窺い市中での潜伏を続けた。だが、それにも限界を感じ、叔父であったコンチーヤの目を逃れ、伝手を頼って異国の都リヴァ・デルメルにやって来た。
 
 国元にいるよりは精神的に遥かに落ち着けはするが、事の解決はいつまで経っても進まない。 このままではグンブスバッカ家だけの問題では済まなくなるだろう。直に領民に累が及ぶことになりかねない。実に愚かしい話だ。

 部屋に風を入れるために開けている窓から子供の大きな叫び声が聞こえて来た。それに続くのは賑やかな笑い声、外の街路で何人かの子供たちが駆け回っている。悪くはない。国元の屋敷は静かすぎた。それを嫌い雑踏を感じるためにこっそりと街中出ることもあったが、正体がばれぬよう慎重にならざるを得なかった。このような市井の民が暮らす只中での寝泊まりなどもってのほかだった。そんな生活が落ち延びた異国の地で実現するとは何とも皮肉な話である。

 ぼんやりと椅子に腰かけているうちに微睡みに落ちてしまったようだ。クレマは物音に気付き目を覚ました。背もたれから体を起こし周囲を窺う。夢だったかとまた椅子に背を預ける。力を抜く直前に同じ音が聞こえた。玄関扉と叩く音だ。来客か、それともボロが帰って来たか。

「こんにちは、バッテリさんいますか。バッテリさん」女性の大声が聞こえた。

 同じ階に住むベルランゴさんのようだ。

「今開けますから少し待ってください!」

 クレマは椅子から飛び起き玄関口へと急いだ。扉の傍に置かれた火かき棒を確認し、扉の覗き穴から外を窺う。外にいるのは薄紫の髪を頭頂でまとめた小柄な老女だけだ。いつものように小さな鍋を抱えている。

「こんにちは、ベルランゴさん」

 クレマはゆっくりと扉を開け老女に挨拶をした。

「スープを少し作りすぎてしまいましてね。よかったらどうぞ」

「ありがとうございます」

 クレマはベルランゴから差し出された鍋を受け取った。鍋からはほんのりとした熱を感じる。彼女は何かと理由をつけクレマの元へ差し入れを持ってくる。同郷のよしみだそうだ。

 本物のウオモ・バッテリは帝国の東方に位置する王国シルバンシャーの出身だ。馴染みのない名では思い入れに欠けるため、バッテリという今は亡き友人の名を使わせてもらっている。彼は物書きを夢見て勉学に励んでいたが病に倒れ、この世を去ってしまった。

 クレマは彼になり替わり帝都に来訪し、この地の大学への進学を目指しているという触れ込みだ。この件についてはウオモ本人からよく聞かされていた。あの会話がこんな形で役に立つとは思ってもみなかった。友人の名を騙るのは気が進まない面もあるが、潜伏生活を続けながらも、実際に大学への受験申請を進めていくつもりだ。

 ベルランゴが同郷と聞き少し身構えたが、東部の出とわかり安堵した。恐らくグンブスバッカの名も知らないだろう。ここでのクレマは貴族の嫡男ではなく、地元では裕福ではあるが、限られた生活費を切り詰めざるを得ない青年を演じなければならない。

 この街がこの国の都であるためか様々な地の人々が入り混じ、クレマの赤い髪も浅黒い肌も目立たない。外出時に容姿を隠すためのターバンも奇異に思われないのは実に助かっている。

 ベルランゴから受け取った小鍋はかまどの脇に置いておいた。ボロはあまりいい顔はしないが、クレマは彼女からの差し入れを悪く思っていない。さっきのスープも街に忍び出て味わった料理とよく似ている。椅子に戻ると教会の鐘の音が響いてきた。それによると夕暮れはまだまだ遠いようだ。微睡みは浅く、いくらも眠ってはいなかったのだ。

 ボロが帰ってくるまでまだ間があるか。今日は部屋でじっとしているつもりだったが、少しだけで歩くことにしよう。

 クレマは簡単に身支度を整え外へ出る準備をした。以前は人任せだったが、今は一人でこれをこなす。慣れてしまえば何の苦も感じない。最後にターバンを巻き目鼻が覗く程度に隠せば変装は完了だ。砂嵐もなく日差しも幾分穏やかなリヴァ・デルメルでこれはないだろうという気はする。かえって目立つように思いもするが、落ち着かないので仕方ない。

「バッテリさん、お出かけかい」

 集合住宅の出口で住人から声をかけられた。彼らは玄関脇にテーブルと椅子を持ち出しカードに興じている。その周囲を何人かが覗きこんでいる。テーブルの上にはチップ代わりの豆菓子が置かれている。

「はい、少し散歩に」 デ・ファジョーレは答え軽く手を上げた。

 雑然とした路地を北に歩き繁華街へと向かう。都の大通りとあって往来は激しく賑わっている。時折やって来る客引きを断りつつ街路を歩く。国元にいる時も顔を隠し、よく出歩いていた。何がしたいというわけでもない。ただ、雑踏を感じたかった。思えばあの外出も何の秘密でもなかったのかもしれない。出る時の着替えはいつもヤノベに手伝ってもらっていたのだから。

 足が向くままに歩いていると、あの店が見えてきた。菓子店「インフレイムス」抗えぬ魅力を持つ菓子が店内一杯に並べられている。問題はこの店も高級店が連なる街路に位置していることだ。そのため小さな焼き菓子一つでもそれなりに値が張る品ばかりだ。今は大して持ち合わせはないと思いながらも、足は真っすぐそちらに向かっている。

 クレマは服や宝石、武具の刀剣の類にはあまり惹かれないのだが、菓子には目がない。無類の菓子好きだった。屋敷の料理人が贅を凝らし作り上げた逸品から、街の屋台で売られている素朴な焼き菓子、軽く味を付けた豆まで何でもよい。集合住宅の入口でいつもカードに興じている男たちに覚えられたのもそのせいだろう。テーブルに置かれた豆菓子を目にしてつい訊ねてしまった。味は薄かったがよく炒られて香ばしくうまかった。

「いらっしゃいませ」クレマが店内に入るとお仕着せの店員が声をかけてきた。

「ごきげんよう、そちらの量り売りのをもらえないか」

 クレマは上着の内側の物入れを探り、見つけ出した小銭を店員に手渡した。

「はい、少々お待ちください」

 この店を見つけたのはほんの偶然だった。部屋に閉じこもっているのが嫌になり散歩を始めた。何度目かに順路を変え行き当たったのがこの店だ。何も考えず足を踏み入れたのだが、高価な品ばかりでとてもその時の持ち合わせでは足りなかった。

 そこで勧められたのがこの焼き菓子だ。安価ではあるが、新市街の資産家女性が贈答用に定期的に買い上げているとあって味については定評があるとのことだった。クレマも一つ試食させてもらった。そして、その言葉に間違いなしと判断し、その時手元にあった小銭の大半を焼き菓子に変え帰路についた。

「お客様、こちらはどうですか」

 菓子の袋詰め、会計を待つ間にクレマは小皿に乗せられた菓子の小片を勧められた。柔らかでしっとりとした生地が口の中で溶けていく。上品な甘さが広がっていく。

「これは……」

 クレマは目の前の陳列棚に同様の品を探した。

「数量限定の新作となっております」

 間違いなく値が張り、口にする機会も限られているという事か。手に入れるならボロを説き伏せ金を用意する必要がある。

「いつ店頭に並ぶのだろうか」クレマは動揺を隠し店員に聞いた。

「一週間もすればお買い上げいただけると思います。ご予約でしたら承っております」

 店員は後ろの棚から紙ばさみを取り出しクレマに手渡した。そこには既に十数人の名前が記されている。これが満たされれば買い求めることさえできないのではと危機感を覚えた彼はすぐさま他の客を同様に氏名と住居の欄を満たしておいた。



 部屋に帰るとボロは既に帰宅していた。

「クレマ様……」ボロはクレマが手にした焼き菓子の袋を目にして眉間にしわを寄せる。

「……一度に食べてしまわないようにしてください」

 呆れとあきらめが交錯している口調だ。彼もクレマの菓子好き十分に承知している。

「わかっている。茶を飲む折に少しずつだ。わかっている」

 ボロは国元にいる時からずっと傍で付いてくれている従者だ。灰色の髪の背の高い男だ。肌はクレマと同じく浅黒く瞳も黒い。

「では、お茶でもといいたいところですが、こちらをご覧ください」

 ボロの表情は真剣だ。何かあったに違いない。ボロはクレマを居間のテーブルまで招き寄せるとそこに置いてあった新聞を開いて見せた。帝都にあっても情報は必要だ。そのため極力買い求めている。

「これです」

 ボロが手で示したのは人探しの広告だった。かれが問題視したのはその対象となっている人物だ。

「クレマ・デ・ファジョーレ氏を探しています。命の恩人である同氏を……」

 さっきまでの菓子を手に入れた高揚感は消え失せ、鳩尾に軽い差し込みと悪寒を感じた。

「何だこれは……」

「何者かがクレマ様を探している、と思われます」

「ここに書かれたツジ・ユアンなる者かその背後にいる何者かが、か……俺がリヴァ・デルメルに入ったことも露見していると」

「その可能性があります」とボロ。

「いい街に来たと思っていたのにここも引き払わねばならんのか……」

「そうならぬように、今後の振舞いは十分な注意が必要かと思われます」

「そのように心がけよう……」

 クレマは窓の外に目をやった。そして、大きくため息をついた。 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み