第6話

文字数 3,397文字

 マラトーナは繁華街を外れ郊外へと向かう。通過路に当たる閑静な住宅地であってもこの日ばかりは通行人で溢れかえる。身なりを整えた住人たちが街路に並び、庭で茶会をしながら走る去る選手を眺める。こちらもまた別のお祭り騒ぎが催されている。その頃にはヴァルヤネンは着実な走りで中盤の先頭まで順位を上げていた。

 この順位まで来るとヴァルヤネンの存在を気に留める者が現れだした。言っては何だが、三百番代の選手は賑やかし数合わせ要員だ。それがなぜこのような位置にいるのか。このような番号で参加する大半は何の実績もない無名の選手なのだ。回収部隊に掴まらなければ上等で完走できれば拍手喝采である。

 しかし、力のある選手も何かの都合で申請が遅れ、番号が大きくなる場合もある。道端で見物人の一人が慌てて、手元の名簿に目をやり番号を確認する。そして、名前がないことに安堵する。たとえこの三百三十六番が上位に入ろうと今回は関係はない。用心深い彼は来年のために番号を書き留めておいた。彼らの中でもマラトーナ賭博に手を出している者は少なくない。裕福なだけに掛け金も多い。   

 ホワイトが捕らえたヴァルヤネンに対しての関心は概ね悪意はない。無関心が大半で、まだ余裕のある顔で走り続ける無名の外国人を面白がっている者もいる。 和やかな雰囲気の中の鋭い殺意が入ってきた。それも高所からだ。

「右前方教会の尖塔、左側だ」とホワイト。「サルビア記念教会」

 裕福な住人の寄進もあってか、港で見かける教会の倍以上の規模で装飾も遥かに豪奢だ。この辺りの誇りとなる建物のようだ。

「わたしが尖塔頂上へ飛び上がり賊を取り押さえる」

 ホワイトが回線に向け告げた時には既に彼女は尖塔の脇にいた。靴底が地にめり込むほどに力を蓄え上方へ飛び上がる。最上部の鐘楼には銃を手にした狙撃手が潜んでいた。ホワイトは素早く狙撃手の中に入り込みその意識を掌握した。男は薄い笑みを浮かべた真っ白な女を目にした直後に意識が途切れた。引き金の傍に添えてあった指をそっと離し銃口を上に向ける。そして、銃を抱きしめその場に座り込んだ。

「尖塔制圧」とホワイト。「アイリーン、下の見張りがいるようだ。押さえてくれ」

「はい、お母様」

「引き取り手は外で待機をくれぐれも騒ぎは起こさぬように」 と、エリオット。

「了解」 落ち着いた男の声が聞こえた。



 折り返しを過ぎて帰路へ、マラトーナ競技会の進行は何の騒ぎもなく順調に進んでいる。しかし、展開は波乱含みの様相を呈している。後方からじわじわと順位を上げてきた三百三十六番の走者、ほとんど金髪に見える薄い茶色の髪の男。彼は中盤を抜け出し、今は先頭集団の最後尾につけている。

 彼が何者か慌てて確認を取ろうとするが、番号が大きな無名選手まで乗せた名簿の数は限られている。賭けに関わらないとなると知った時の反応は二つに分かれるようだ。賭けに関係ないなら捨て置いてよいと考える者と、新たな不確定要素に不安を覚える者に分かれている。

 当の走者たちは後者のようだ。突然目の前に現れた見知らぬ外国人、汗は搔いているが苦しいそうな表情は見られない。横につかれ不安になり抜かれまいと歩調が乱れる。今二十三番が後方へと落ちていった。それを期にヴァルヤネンは加速を開始した。勝負に出るようだ。

 競技も後四分の一を切ったところでなお順位を上げていく無名の選手の出現に気付き沿道に声援が湧いている。ヴァルヤネンはほどなく先頭のプロフォンドの背後についた。ショウメイ・プロフォンド、ビルダル家お抱えの騎士である。屋敷の警備を担当となっているが彼の職務はマラトーナに重点が置かれている。その実績は八回出場の内五回の優勝、他三回も入賞圏内の成績で賭けの大本命である。ビルダル家の名を背負っての出走だ。

 今回も終始マラトーナを支配してきたプロフォンドは背後で響く歓声に胸騒ぎを覚えた。自分に向けられた声ではない。他の誰かがいる。僅かに振り返り後ろの様子を窺う。目に入る範囲で走者が一人増えている。少し前までは二位クロナウド、三位マガジィーノだったはずがすぐ後ろに三百番台の走者が迫っている。初めて目にする顔だった。番狂わせなど珍しくもない。この競技は大金とよい仕官先を得る機会でもあるのだ。無名の足自慢が参加するのは珍しい事ではない。少し早めだったがプロフォンドも勝負を決めにかかることにした。



 プロフォンドとヴァルヤネンの勝利を賭けた走りについていけず、他の走者は後方へと退いていった。本命プロフォンドと無名の男の対決という展開に皆が驚き興奮していた。プロフォンドの急な加速に、彼に賭けていた客たちは無理せず走り切ることを望む者もいた。二位であろうと賭けは勝ちだ。しかし、彼には背負う家名があった。新参者に勝利は譲れない。それはヴァルヤネンも同じことだ。競技会での勝利をただの放言で終わらせたくはない。

 喜びや絶望など様々な感情のもつれ合いの中にアイリーンはひときわ強い驚きと不安を感じた。ヴァルヤネンがこの場に姿を現したことにひどく驚いている。それは観客、走者、誰もが抱いている感情だ。ヴァルヤネンについて事前に聞いていたホワイト、アイリーンでさえここまでやる男とは思ってもいなかった。

 だが、この不安とそれに伴う戸惑いは他の観客とはまるで別方向だ。不安の主は叫びを上げている。

「なぜ生きている。なぜまだ平然と走っていられるのだ」

 思いの主は疑心暗鬼に襲われ混乱に包まれている。

「お母様、見つけました」とアイリーン。「居酒屋ロクヤス二階宴会部屋」

「聞いての通りだ。手配を頼む」

「了解」

 ホワイトとエリオットのやり取りを聞きつつアイリーンは開け放たれた窓から宴会部屋に飛び込んだ。部屋のテーブルや椅子は邪魔にならぬよう壁際に片付けられている。窓際に銃を手にした射手、傍に身なりのよい男が待機している。射手よりこの男の緊張が強い。この男の情緒の乱れに射手は迷惑しているようだ。

 首筋に触れた指先から麻酔毒で射手を昏倒させ狙撃銃を取り上げ無力化する。突然、膝から崩れうつ伏せに倒れる射手を目にして身なりの良い男は動転する。逃げるために踵を返す。

「捕まえた」少女の声と共に首筋にひんやりとした感触が走る。

 男は視界を闇に包まれ気を失った。

「二階二名制圧。指示役を拘束しました。この男が統率役のようです。男によると襲撃部隊はこれで全員のようです」 とアイリーン。

「ご苦労、別系統の部隊もいるやもしれん。引き続き警戒を怠らぬように」

「はい」



 皇宮広場に最初に飛び込んだのはプロフォンドだった。彼に対し勝利を示す旗が振られ勝負は終結した。二歩ほど遅れヴァルヤネンが終点へと入った。近年稀にみる接戦はこれにて終了した。力を使い果たしたヴァルヤネンはよろよろとプロフォンドの元に歩み寄り片手を差し出した。プロフォンドもそれに答え握手を交わす。そこでヴァルヤネンは膝を着きその場に座り込んだ。

「ご無事で何より、全く気も冷やしてばかりでしたよ。エリヤス様」パーシコスは離れた場所で握手を交わす主人を眺め呟いた。

 ややあってクロナウドが到着、ついでマガジィーノが皇宮広場へと戻ってきた。ヴァルヤネンの登場に競技内容は荒れ気味となったが順位は比較的順当な結果となった。

「とりあえず一段落ついたな」ホワイトの声が聞こえた。これは肉声だ。

 パーシコスが左側に目をやるとホワイトが立っていた。

「刺客は全員取り押さえたはずだ。この場に怪しい気配はない。大いにお祭り気分だ」

 歓声と共に拍手が響く。

「ありがとう、ヴァルヤネン様が何も知らぬうちに競技が終わって何よりだ。惜しい結果に終わったがあの方のこと十分楽しまれたはずだ」とパーシコス。「で、そいつらはどこにいる?」

「エリオットと配下が監視をしている。スターニョス・アキュラという男を知っているか?そいつが今回の暗殺計画を仕切っていたようだ」

「地元で良からぬ噂が多い何でも屋だ。恥ずかしながら奴に汚い仕事を頼む多いと聞く」

「その上にいるのがタケダク・ニフィコという男だ」

「なるほど……」パーシコスは深いため息をついた。「それで察しがついたよ。残念だがすべて納得がいく」
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