第4話

文字数 3,903文字

 相変わらず記憶は戻ってこないが、ここ数日は悪夢にうなされ夜中に起きることはなかった。おかげで、薬湯に囚われ午前中のけだるさもない。
 ルリは病室で昼食を終えた後、いつも通り階下へと降り庭園の椅子にしばらく座っていた。傍を通りかかった職員や患者などとの会話を楽しんだ後、彼女は病室に戻る前に今まで足をむけたことのない療養所の東側に行ってみることにした。気分の良い日だったこともあり、ほんの少しだが足を伸ばしてみる気になっていた。
 東病棟の裏側は療養所の倉庫や職員向けの施設が並ぶ場所だった。整備の行き届いた病棟とは違い、飾り気がなく少し色あせ古びてはいるが,しっかりとした作りの小屋が並んでいる。その奥は療養所を囲む雑木林となっていた先を窺うことはできない。足元の石畳もやや傷んではいるが、この幅が確保されたいるのなら何の問題もない。木々は剪定の必要があるだろう。ここでルリはふと気が付いた。わたしはどうして庭や建物などを目にするとその評価を始めるのかと……。やはり、失った記憶が作用しているのか。彼女は少しの間自分の過去について思いを巡らせた。
 ふらふらと歩いているうちに療養所の裏手に到着した。そこは入り口と違い簡素なつくりの出入り口と数台が駐車可能な馬車止め、そしてその先にゴミ置き場と焼却炉が配置されていた。道はここで途切れることなく先に続いている。
 ルリは出入り口傍にいた警備員達に軽く会釈を反対側の通路へと入っていった。彼らも彼女がそこにいることを不審に思った様子もなく会釈を返した。
 窮屈なゴミ置き場を抜け、少し歩くとそこは小さな花壇になっていた。花を囲む石組は中庭に使われた石材と同一の物と思われた。形が一定していない点をみると成形された後の残り物なのだろうが、それを巧みに使用し綺麗なモザイク模様を作り上げている。植えられた花々も世話が行き届いているようで、勢いを持って咲き誇っている。
 花壇を眺めつつ歩いていると、先にある小屋から年配の掃除婦が一人姿を現した。粗末な台車に掃除道具を詰める小柄の女性の姿にルリは見覚えがあった。つい先日の侵入者騒ぎの折に会った女性である。彼女は不意に現れた不審な男達を追い払い、不安に襲われたルリの傍でしばらく付き添ってくれていた。ルリとして礼が言いたかったのだが、あれ以来彼女とは顔を合わすことがなかった。
「こんにちは」ルリは掃除婦に声を掛けた。
「こんにちは、奥様。何か御用が御有りですか?」
 掃除婦に顔に一瞬不審の色が浮かんだが、それはすぐに奥へと消えた。しかし、浮かべる笑顔の中には対処に迷う様子がうかがえた。普通このような裏通りはルリのような患者が訪れる場所ではない。たまに姿を現す者は大抵正体を失っている場合が多いからだ。
「先日はありがとうございました」
「いえいえ、どういたしまして」とはいったものの、彼女としてはここまで来てわざわざ礼をされる理由が分からない。仕事中によく見かけはするが、自分がルリに何か感謝されるような事をしたか記憶を探ったが思いだすことができない。
「あれから、お加減はよろしゅうございますか?」そのため彼女は無難に言葉をぼやかせた。
「はい、最近は嫌な夢など見ないのでよく眠れております」
 ちゃんと噛みあっているのか、わからない会話を二人が続けていると、小屋からもう一人掃除婦が顔を出して来た。小柄で同じ服装と髪型、髪の色をしているため双子のように見えるが、少し太っているため見分けはつく。
「こんにちは、ルリ様……ですね。何か御用ですか?」
 話は最初へと戻り、ルリは先日の騒ぎの顛末から小太りの女性に説明を始めた。最初は笑みを浮かべていた二人だったが、話が進むにつれ笑顔が消えやがて気まずそうに眼を伏せ眉間にしわを寄せた。
「また出たようだね。ヨシさん今度はあんただよ」
「そのようだね」ヨシは両手で身体を抱きしめ震えた。
「わたし、何かお気に障ることでも……」
「いえ、奥様は何も悪くはありません」
「ええ、ご心配なく」二人は慌ててルリをなだめた。「ただ、最近ここは何か出るんですよ」
ヨシではない方が周囲を窺うように首を振る。
「何ですか?」
「わからないんですが、何かです」
「中でお話ししましょうか?上の方々に伏せて頂けるなら……」
「はい」
 ヨシの言葉に同意したルリは小屋の中に招かれた。室内は簡単な炊事設備が付いた納屋という雰囲気で少し雑然としていたが、中央に置かれたテーブルと椅子は綺麗に磨かれていた。ルリには改めてヨシが座面を力を込めて磨いた椅子が勧められた。
 三人の前に薄い茶が置かれた後、ヨシと双子のように見えるノーラが話を再開した。
「まぁ、療養所ということもありまして、何か妙なものが出る、見えるというのは特に珍しい事ではないんですが、今回はそれとは違うようなんです」
「それとはやはり幽霊とかですか?」
「ええ、それならいつものことなんです。言うと怖がる方がいるので、皆適当にごまかしてます。でもねぇ最近出るのは別の何かです。何かがわたし達職員に化けてこの中を動き回っているようなんです。受付にいるはずのエダさんがなぜか病楝の中を歩いていたり、休みのはずの先生や看護師さんがいたり、本人は否定しても会った人たちは挨拶や会話も交わしてる」
「それは確かなんですか」
「ええ、いろいろ聞いてみると似たような話が出るわ出るわ。みんな勘違いや、気味悪がられるのを嫌って思って黙ってたようなんです」
 ここでルリはノーラが何を言いたいのか思い当った。
「もしかして、わたしが会ったヨシさんもそれだということですか?」
「はい、ヨシさんその日はお休みでしたから、ねぇ」
「ええ、家で娘といました。孫と一緒に遊びにきていましてね」
「そうなんですか。あの時お会いしたのがあなたではなく、その何かだったなんて……。そう、ここの上の方はどうお考えなんですか?その化ける何かについてどうお考えなんですか?」
「何かあったら報告しろ。しかし、患者さんやそのご家族には伏せておくようにといわれてます」
「それだけですか?」
「特に被害が出ているわけじゃないから静かにしておけと……」
「被害が出てからじゃ遅いと思うんです。内密にではなく街から力のある人を呼んで調べてもらったほうがいいっていってるんですが……」
「だめなんですか?」
「はい、そんなことして変なうわさが立ったらどうなるのかって、うちはお金持ちや貴族の方々がお客様なんだ。それが原因で今三階を丸ごと借り上げている街の人が出て行ったら、あぁ……」
「ヨシさん!」
 二人の掃除婦は目の前にいるのが、その三階を丸ごと借り上げている街の人であることを思い出した。そして混乱しめったやたらと謝り始めた。
「落ちついてください。わたしは何も思ってませんし、他の方にしゃべることはありませんから」
 これより以降はルリがヨシをなだめる立場になってしまった。
 
 それからのしばらくルリとの会話つづいたが、思いのほか休憩時間が長くなったことに気が付いたヨシとノーラはルリに別れのあいさつもそこそこに飛び出していった。
 終始休憩時間のルリは一人散歩を続行することにした。ヨシ達の小屋を過ぎてしまうと周囲の雰囲気は雑木林を縫っていく小道へと戻っていった。小屋や花壇などが無くなってしまうとまた味気ない通路である。足元の石畳や頭上の木々を少し整備すれば陽光降り注ぐ散歩道になりそうだが、それにも経費が必要となる。そんなことをするならその経費を表の庭園で……なぜわたしがこの療養所の経費の使い道まで考える必要があるのか?なぜ何かと目線が運営側へと移っていく、ここでルリは思索を止めた。
 病棟の西側を抜け、ルリは中庭へと戻ってきた。中庭の様子はいつもの変わらない。ルリのように散歩をしている患者、それに付き添う看護師。長椅子には患者とその家族が座り傍には従者らしき人物が寄り添っている。足早に現場に向かう職員の姿もちらほらと見える。
 ヨシ達はこの中に彼らにそっくりな姿に化けた何かが潜んでいるかもしれないといった。今のところ大した実害がないにしても、自分そっくりの何かがうろついている。それが自分そっくりであるとすればと考えると、ルリにもヨシがあの時見せた表情も理解できた。
「ルリ様ですね?」
 気が付くとルリの右傍には小柄な若い女の看護師が立っていた。見慣れない黒髪、褐色の肌の看護師である。
「はい、そうです。何か御用ですか」ルリは笑顔で答えた。
 彼女は落ちつかない様子で辺りを窺っている。そして手に持っていた封筒をルリの手に押し付けてきた。
「これをお持ちください」
「何ですか?これは……」
「あちらの男性がルリ様にお渡ししてほしいとおっしゃって……」
 彼女はそう言ってルリの左後方を指差したがそこには誰もいなかった。
「どの方ですか?」
「えっ!さっきまでいたんですが、とにかくお渡ししましたのでよろしくお願いします」
 それだけ言うと看護師は足早に西病棟内へと去っていった。押し付けられた封筒を取り落としそうになり、ルリがそれをお手玉をしているうちに彼女は建物の中に姿を消していた。ルリは後追ったが、覗きこんだ病棟内には彼女の姿はすでになかった。
 受け取った封筒は無記名で中央が膨らんでいた。指で探ると何か固い物のようだ。ルリはそれをその場に捨てて行くわけのも行かず、ローブの内ポケットに入れてから病室への帰途についた。
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