フィル・オ・ウィンの難行 第1話

文字数 4,480文字

 針葉樹の森を馬車が抜けると思わずフィル・オ・ウィンは軽く息をのんだ。眼下に朝までいた村の赤い屋根が目に入り、その先に雪を頂く峰の連なりが広がっている。あの峰の向こう側は帝国と北西部で隣接する大トリキア公国のとなっている。コバヤシの機械があればこの見事な風景を撮り止めておくところだが、残念ながら今それは手元にない。今はせめて心に焼き付けるのみである。
「あぁ、素敵な眺めですね」
 エリン・エブリーの横に座っているアンジェラ・ゴドゥが声を上げた。 肩までの赤い髪で痩身の中年女性だ。
「そうでしょう。下から見上げるエディルネ山もいいが、この高さからの眺めもまた格別です」とヤンボ・テンキョーホ。
「ここまでくればラーラパジャ山荘はもうすぐですよ」妻のマーヤも言い添える。
 ここまでの旅程は至極和やかに流れている。目的地であるラーラパジャ山荘へ向かう送迎用の馬車は二台で、前を行くこちらには五人が乗っている。
 馬車に乗り合わせたのはヤンボ、マーヤのテンキョーホ夫妻。小柄で白髪交じりの物腰柔らかな老夫婦である。彼らはこれから向かう山荘の常連客らしい。お気に入りの宿らしく広報担当顔負けにその魅力をオ・ウィン達に話し聞かせている。アンジェラ・ゴドゥは作家と称していた。ラーラパジャ山荘は今回が初めてで休養と執筆用の取材も兼ねているそうだ。共に帝国西部の大都市オキシデンからの来訪だ。 
 そして、オ・ウィン達は帝都からやって来たエブリー夫妻を演じている。夫のダニエルが不測の事態に見舞われ、やむなくエブリーとフィルの母子だけで山荘へ先に出向く羽目となった触れ込みだ。宿泊予約を守るために必死になっているという設定である。三人ともエブリー夫妻の降ってわいた不運には同情的で疑っている様子はない。
 マーヤの言葉通り、ラーラパジャ山荘はほどなく彼らの眼前に姿を現した。三百年前に建てられた美麗な城塞は帝国の手を離れた後、豪華な宿泊施設として生まれ変わった。「歴代ハウサ侯爵を魅了した絶景をあなたに」というのがこの山荘の売り文句である。
 拡張された城門をくぐり山荘内へと進入する。外からの景観は名高いが、元城塞とあって中に入ってしまえば頑丈な城壁に囲まれているため、前庭で見える風景に雪を被った山はなく、庭に立っただけでは暗い灰色の城壁しかなく、青い空に浮かぶ雲や山をを眺めるに見張り台に登る必要があっただろう。案外ハウサ侯爵が目にしていたのも大半はこの窮屈な眺めだったかもしれない。
 城主館前の前庭に大勢のお仕着せ姿の男女が並んでいた。二台の馬車が前庭に並んで止まると中央に立っていた年嵩の男が一歩前に出た。
「ようこそラーラパジャ山荘へお待ちしておりました」年嵩の男が恭しい腰を深く折り礼をする。支配人に違いない。背後の男女がそれに続く。男の従業員達が駆け出し、それぞれ馬車の乗降口に向かい扉を開いた。彼らに促され客たちが降り始める。
 こちらはまず、ゴドゥが降りそれにオ・ウィン達が続いた。最後はテンキョーホ夫妻、先に夫のヤンボが降り口の踏み台に足を掛けたが、手にしていた杖が滑り前のめりに転げ落ちそうになった。
 妻のマーヤは鋭い悲鳴を上げたが動けないでいた。エブリーが素早く対応しヤンボを前から支え降りるのを手伝った。
「旦那様ご無事ですか?」もう一台の馬車から若い金髪の男が駆け寄ってきた。
「大丈夫だ。レオナルド」とヤンボ。
「なにが大丈夫だ、ですか」夫人は衝撃が収まらないらしい、両腕で自分を抱きしめている。「わたしはすっかり肝を冷やしましたよ。この方がいなかったらどうなっていたか」 エブリーをに目をやり、強張りの取れない顔で笑みかける。
 マーヤの気持ちはよくわかる。帝都でも落車による怪我は珍しくはない。相手が高齢となればなおさらである。
 エブリーはその場を使用人のレオナルドに譲りオ・ウィンの傍に戻った。常連客にふさわしく支配人と従業員の一人も夫妻の元に駆けつけてきた。御者も降り深々と頭を上げている。上客の夫妻が送迎馬車で転んで、そのまま下山など話にならない。
 二台目から降りたのは先ほどのテンキョーホ夫妻の使用人レオナルドと中折れ帽を被った白い肌に茶色の髪の優男。最後は老人と付き人の二人連れ。痩せて骨ばった老人の目つきは鋭い。名はエコー・ドラゴという西の贋作売買の業者である。ヤンボと同様に杖を手にしているが用途はまるで違っている。持ち手に龍の意匠が施された杖の支柱は空洞で単発式の銃として機能する。ボディーガードを兼ねる付き人はペル・ラサト。痩身長躯の男で剃髪された頭に髪はない。一見丸腰に見えるがウエストコートの背に直刀を忍ばせている。ただし、それに気が付くのは一部の者だけであろう。
 今回オ・ウィン達がこの山荘に出向いて来たのは、ここで密かに行われる取引を聞きつけてのことである。その取引に画商であるドラゴが関わっている。
 
 ついていないエブリー夫妻にあてがわれたのは二階の一室だった。部屋には大きな寝台が二つ置いてある。ふわふわの枕と肌触りのよさそうなシーツと上掛け、自宅で使っている寝具よりよさそうだ。窓際にはテーブルと椅子が置かれ壁には風景画が掛けられ、そこには金色に輝くエディルネ山が描かれている。元城塞とあってベランダはないが、窓からの眺めは格別である。
 山荘として開業するため城壁には多数の改装が施された。城壁には多数の開口部が設けられ、重厚な鎧戸の中にはガラス窓が追加された。そのため光を遮断することなく風を遮ることができる。 謳い文句の景観も確保できている。
「いい所じゃないか、仕事なのが実に残念な話だが」
「そうですか。我々もそちらに行きたかった」頭蓋に声が響く。
「若いうちに金を貯めて客として来るといい。下手に長くいると体のいい便利屋にされて動きが取れなくなるぞ」
 イヤリングの向こう側にいるのはオキシデンの警備隊士である。山荘内の通信状態に問題はないようだ。今回は彼らの要請に応え帝国の西端までやって来た。
 彼らは何年もの間、ある美術品窃盗犯を追っている。それは手配者カ五〇四号通称ファンタマ。その盗賊は依頼を受け、指定された品を盗み出す。依頼主や仲介者、協力者は多数捕まっているのだが、ファンタマ自身はまだ捕まっていない。性別年齢不詳、その姿は誰も知らない。誰の供述も盗賊の容姿は一致しない。若い男であったり女だったりする。太った中年男が盗品を置いていったことや老婆が届けたことまである。姿が一定しないのは意識操作などによる幻影ではなく、巧妙な変装と思われる。神出鬼没で事後に容姿がようやく知れる。その繰り返しのため、人相書きのコレクションが増えるだけのくやしい状態が続いている。
 先ごろ盗賊ファンタマの正体を追い、地道な捜査を続けてきたオキシデンの警備隊にようやくチャンスが訪れた。贋作売買の捜査過程で浮かんできた画商エコー・ドラゴが、長く行方不明になっていた絵画を買い取るための商談をこの山荘で行うとの情報が入ってきた。それをファンタマが狙っているという。どこまで確実かはわからないが、ドラゴは動いていたことから少なくとも失われた絵画の奪還は可能だろうと、山荘での奪還作戦が立案された。そこで一騎当千の力を持つオ・ウィンに出番が回ってきた。いつもながら乱暴な作戦だが他に妙案があるわけでもない。淡々と準備を整えるのみである。
「少し歩いてみようか」オ・ウィンは外に出ることにした。
 山荘の見取り図を受け取り改装前の構造も含めて頭に入っているが、直に目にしておくことも大事である。元城塞となるとどこで通信障害が出るかわからない。隠れる場所についても同様である。
 一階から三階を経て屋上の見張り台を改装した展望台へ、しばらく山にかかる雲を眺めた。ここからエディルネ山を眺めたのはハウサ侯爵ではなく見張り役の騎士達だろう。多くの日に火を焚き寒風に耐えながら過ごしたに違いない。
 展望台から降りた後オ・ウィンとエブリーは山荘の裏口へと回った。洗濯場、厨房、薪置き場、果てはごみ置き場まで見て回った。好奇心旺盛な子供を装うオ・ウィン相手に従業員たちは好意的に見学を認めた。
 一通りの見学を終え二人はカフェテラスへと向かった。こちらも以前は見張り所として使われていた。多数の銃眼が設けられ、そこから付近の崖を上り獣道を行く不審者に狙いを付けていた。現在は銃眼が開けられていた壁は取り払われ、ラーラパジャ山荘自慢のテラス席となっている。
 幸いなことにテラスにはまだ誰もいなかった。エブリー親子はテーブル席一つ向かい、椅子に腰を掛けた。間を置かず若い給仕がやって来た。エブリーが珈琲と甘茶を頼むと彼は速やかに去っていった。ややあって飲み物を乗せた盆と共に彼は戻ってきた。
「フィル・オ・ウィン殿とエリン・エブリー殿ですね。遠方よりご足労ありがとうございます。オキシデン警備隊三課ヤニー・マイタネンです」
 給仕は微笑みを浮かべ珈琲と甘茶をテーブルに置いた。
「今回はインチキ画商に感謝かな。こんな宿には公費でないと泊まれん。今はどのような状況かなマイタネン殿」
 オ・ウィンは両手で甘茶を持ち上げた。鮮やかな色のハーブが浮かんでいるグラスは緑に輝いている。
「現在は取引相手の画商のイマギナ待ちです。彼は今日の午後の麓の村に着きました。明日にはこちらに登って来るでしょう」
「ファンタマの動きは掴めていますか」とエブリー。
「残念ながら何もありません。泊まり客、従業員とも素性ははっきりとしており、不審者は見つかっていません。ですが、相手は正体不明の盗賊です。油断はできません」
「今日同じ馬車で来た一人客の青年は何者だね?」
「ビーンズ卿ですか?」
「卿?」
「公国のブラスト家の嫡男、未来のアバロン伯爵だそうです。身分証はしっかりしています」
「お坊ちゃまの一人旅か」
「そのようです」
 派手な歓声が聞こえそちらに目をやると、テンキョーホ夫妻とアンジェラ・ゴドゥの姿があった。ゴドゥはオ・ウィン達を見つけると駆け寄ってきた。
「あら、あなた達もここだったのね。素敵な眺めよね。ご夫妻に教えていただいたの」とゴドゥ。
「ここに来たなら、まずこのテラスに来んともったいない」彼女に続き夫妻もやって来た。
「君は見かけん顔だな」ヤンボがマイタネンに声をかけた。
「お初にお目にかかります、テンキョーホ様。マイタネンと申します。オキシデンから学期休みを利用してやってきました。よろしくお願いいたします」
「なるほど、頑張ってくれよ」
「はい、ありがとうございます」
 ヤンボは軽くマイタネンの肩を叩くと既に給仕が待機しているテーブルへと去っていった。
「夜空も格別だそうよ、楽しみね」 
 ゴドゥも去っていった。
 夜からがオ・ウィン達の本格的な任務となる。彼らに空を眺める暇などないだろう。
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