ベレロフォン 第1話

文字数 3,704文字

 舞台初日の帝国歌劇場はいつも鮮やかな花々で満ち溢れ、その多くに送り主からの祝福や激励の言葉が書かれたカードが添えられている。
 お馴染みの漆黒の外套と仮面といういで立ちで歌劇場へやって来たアクシール・ローズは、通路の両側に並べられた華やかな花々を眺めつつ、劇場の奥へ向かっていた。艶やかな花で彩られた通路を抜け、今回の芝居や役者にちなんだ品が並ぶ売店を横目に、桟敷席への階段も越えてさらに奥へと進む、そこは飾り気のない通路でなのも置かれてはいない。この辺りまで来ると来客の数もまばらとなる。歌劇場の上客である彼女でもここまでくることはまずない。
 その先には関係者以外立ち入り禁止と書かれた看板が置かれ、隣に柔らかな笑みを浮かべた金髪の男が立っている。大柄で筋肉質の体を仕立ての良い漆黒のウエストコートが覆っている。
 ローズは男に手元に呼び出した封書を差し出した。男はそれを確認すると軽い会釈の後、通路を封じていた綱の片側を外しローズのために道を譲った。錦糸で編まれた綱などここでしか見ることはないだろう。彼は開いた片手で行き先を示した。ローズも軽く会釈を返し奥へと進んだ。
 この先は所謂楽屋裏だ。普段客の立ち入りは許されていない。まずは演者か舞台関係者の招待が必要になる。ローズのような上客であっても扱いは変わらない。ローズも無理はしない。今夜の来訪はマルコ・パシコルスキーの招待によるものだ。彼は一時呪いに囚われ、昏睡状態に陥っていた。その一件を解決に導いたのがローズである。現在は完全に体調を持ち直し精力的に活動を再開している。
 開演を控え慌ただしく人が行き交う通路を、順路が書かれた書付を手に歩く。開園前の忙しさと大仰な衣装を見慣れてるせいか、ローズの存在に違和感を覚えている者はごく僅かだ。そんな彼らもあれは誰か、どこかで見たことがあるなどの考えは、忙しさに押されたちまち消し飛ぶ。バートが通したのなら問題はないだろうという落としどころへ到達する。さっきの門番の男はそれほどに信用があるらしい。
 ほどなく、マルコ・パシコルスキーと書かれた札が貼られた扉の前に到着した。扉を軽く数回叩くと中で交わされていた会話が静まり扉が開かれた。扉の傍にいたのはエリヤス・ヴィルヤだった。同じ歌劇場所属の役者でパシコルスキーの恋人でもある。他に友人のトミー・カッコとトニー・ポルティーの姿もある。正面に見える大鏡の前には着飾ったパシコルスキーが座っている。仲の良い四人が勢揃いというわけだ。
「ローズさん、こんばんは」ローズの姿を目にした三人が軽く会釈をする。パシコルスキーも立ち上がり軽く頭を下げる。
「こんばんは、皆さん」ローズも軽く頭を傾げて答える。「わざわざ呼んでいただいてありがとうございます」
「とんでもない」とパシコルスキー。「一度お会いして直接御礼をしたかったのですが随分遅れてしまいました。あの時はありがとうございました。あなたのおかげで俺は万全な身体に戻ることが出来ました」
 パシコルスキーはしゃがみ込み屈伸運動や両手を上げ大きく振り回すなどした。
「マルコ……」パシコルスキーのはしゃぎぶりをヴィルヤがたしなめる。
「ごめん……」四人の笑いが起こる。
「まぁ、お元気な様子で何よりです」
「ありがとうございます」
「本当は彼も早くローズさんをもっとお呼びしたいと言っていたのですが、体調を万全にした方がいいわたしが止めていたんです」とヴィルヤ。
「今回は個室が取れるような役が取れたので、この機会を逃しては行けないとご招待した次第です。まぁ、主役じゃないのはご勘弁を……」
「あなたがやってみようと思ったならきっと面白い役回りなのでしょう。期待していますよ」ローズはパシコルスキーに微笑みかけた。
「それにしても、いいお部屋ですね。大きな鏡もあって」
 ローズは鏡を覗き込むが当然のごとく彼女の姿は映らない。四人も鏡にローズが言及するまでそれには気が付いていなかったようだ。パシコルスキーは鏡とローズを何度も見比べている。カッコとポルティーは困惑し、ヴィルヤは昔からの言い伝えが真実だった事に喜びを隠せない。
「本当に姿が映らないんですね」とヴィルヤ。
「本当に映っていない……ローズさんが映さないようにしているわけじゃないんですよね」カッコはまだ信じきれないようだ。
「していません」
「もしかしたら、この何百年も自分のお顔を見ていないとか……」とポルティー。
「まぁ、鏡に映った姿を自分でという意味ならもう千年以上見ていませんね。ですが、他の方の目を通してなど間接的になら、あなた方が鏡を覗き込む程度は目にしています。今ならメイドのフレアが鏡がわりになっていることが多いですね」
「あぁ、そんな風に自分の姿を見ているんですか」
「えぇ、だから真っ赤な瞳も青白い肌もよく目にしています」
 それからもローズはパシコルスキー達四人と芝居が始まる間際まで和やかに話していた。
 開演直前の鐘を耳にして彼らが放つ和やかな雰囲気が消え、ローズは初演を控えた緊張感に包み込まれた。ローズと友人達三人はパシコルスキーの控室を出て、通路で友人三人とも別れを告げ、ローズはフレアが待つ桟敷席へと足を向けた。帰りの道中ではさっきまでの賑わいが消え去り、控室が並ぶ通路は緊張感に満たされていた。
 誰もが自分の出番に備え、頭の中で段取りの復唱を繰り返している。中にはそれが声となって耳に入る場合もある。台本を読み返す声なき声がローズの耳に流れ込む。これは意識の発露のため耳を押さえても消えることはない。ローズとしてはその中に重要なセリフが混じっていないことを祈るばかりだ。
「どういうことよ。約束したじゃない」感情的な女の声が耳に飛び込んできた。これは肉声だ。少し先の部屋から聞こえてくる。扉が中途半端に開き会話が漏れ聞こえてくる。いや、会話というより女が一方的に責め立てている。相手は彼女を訪ねてやって来た男だ。柔らかそうな金色の髪の優男で、彼がもたらした話が彼女を苛立たせる。
「そんなのわたし達に関係ないでしょう!」
 男は彼女との交際に親が反対しているという。交際を続けるなら家から放り出す、援助もないと迫られている。女としては失う金より親離れできない男に苛立っている。自分に自信がある女は親か自分かどちらが大事か、彼から以前受け取った手紙を手に決断を迫っている。
 開演を告げる鐘が鳴った。男の決断を知りたいところだが時間切れだ。ローズは女の控室の前を通り過ぎ、桟敷席へ急いだ。

 
「お話は楽しめましたか?」桟敷席への昇降口にローズの気配を感じフレアは立ち上がった。
 今夜はパシコルスキー達との歓談の時間を余裕を持って取るためローズは空路で歌劇場へ向かい、フレアはいつも通り動馬車でやって来た。いつも通りに馬車を止め、いつも通りに桟敷席へと上がりローズの登場を待っていた。
「えぇ、彼はもうすっかり元気になっていたわ。ヴィルヤさんたちも一緒で楽しい時間を過ごせたわ」
「それはよかったですね」
 気の置けない仲の良い友人、それが得難いものであるのはフレアでもよくわかる。
 フレアはローズから重い外套と仮面を受け取り、代わりに黒眼鏡を手渡す。外套の重みに衣装掛けが軋む。芝居中に倒れては興醒めになってしまう。フレアは鋼鉄製の衣装掛けの肩と足元を確認した。今のところは問題はない。だが、掛かる重量は鎧と変わらない。これもいずれは修理か取り換えが必要になるだろう。
 フレアが点検を終え、席に着くと同時に緞帳が上がった。軽やかな伴奏の元に舞台では舞踏会が始まった。五組の男女が魅せる官能的な舞に観客達はすぐさま芝居に引き込まれる。フレアも彼らの一糸乱れぬ美麗な動きに目を奪われた。だが、すぐにその集中はそがれてしまった。何かが気持ちをざわつかせる。
 横にいるローズに目をやると、彼女も舞台より別の何かを探している様子だ。また、見えない何かを感じ取っているのかもしれない。ローズによると、歌劇場のような場所では様々な思いが日々交錯している。そこに取り残された思念がローズに流れてくることがあるらしい。敏感なのも善し悪しがあるといったところか。
「聞こえない?苦悶の叫び」ローズは階下の席を眺めつつフレアに問いかけた。
「えっ……」
 フレアには楽団が奏でる楽曲しか耳に入らない。
「あそこっ!」ローズの言葉が耳に届くと同時にフレアも客席で胸を押さえ苦しむ男の姿を見つけた。
 前から中ほどの列、右通路から少し左に入った辺りだ。肩幅が広く仕立ての良い黒のウエストコートを身に着けた男だ。金色の髪を逆立て、遥かな南方に棲んでいる獅子を思わせるような髪型だ。
 ローズは席から立ち上がるとそのまま階下へと飛び降りた。巧みに宙で軌道修正をし、通路へ舞い降りる。フレアも席から立ち上がり出口へと向かった。一度外に出て、一階入り口から客席へと入る。フレアがローズの傍に駆けつけると、彼女は男の傍で片膝を付き目を伏せていた。
「残念だけど、手の施しようがなかったわ」ローズは肩を落としため息をついた。
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